【 恋でもいい 】

刃を、喉に突き立てていた。

「緋村!」

はっと己の手を見た。脇差が一振り、右手の中に握られている。ぬるっとした柄の感触、鼻をつく錆びた鉄。袴の裾に暗闇でもそれと分かる赤い染み。

(また、殺し損ねたか)

「緋村、どうした」

検分役の男たちが部屋に入ってくる。消した蝋燭の臭いに、死臭が混じった。宿の二階、通りに面した部屋には死体が一つ、転がっている。

「……いえ、何でも」

脇差の刃を懐紙で拭う。検分役の飯塚が珍しそうに目を細めた。今夜もまた「仕事」だ。いつもはこんな室内での暗殺はしないのだが、今夜は違った。獲物は今夜この部屋で密談をしていた幕府方の大物だった。

「珍しいな、返り血か」

飯塚が袴の裾に目を向けてニヤリと笑う。確かに、珍しい。この「仕事」を始めてから返り血を浴びたのは、久しぶりだった。

「脇差など使うから間合いを読み違えたか?」
「襖を開けて一足飛びで踏み込み、そのまま首を狙う。刀では長すぎる」
「なるほどな。さすがは人斬り抜刀斎様よ」
「後は、頼みます」

赤く汚れた懐紙を投げ捨てた。それは死体に添えられた花のようにぽとりと畳に落ちる。

「……人斬り、ねぇ」

飯塚はその紙の花を踏み、転がる躯を睨み付けた。
その傷跡は、まだ血を流している。

暗殺に慣れているとはいえ、宿の一室での暗殺には多少の不安もあった。
だが、為してみればいつもと同じ。緋村は脇差を腰に戻すと夜道を進む。

「またか……」

左頬が痛んだ。触れれば、そこは濡れている。

(……恨みの、刀傷……)

刻まれた刀傷を見るたび、そこから血が溢れるたび、思い出す。
名前も知らないあの殺した男の、生きるための執念。

(……くだらない)

切れ味が、悪い。
それは己の振るう刀だけではなかった。
ここしばらく、当たり前のように返り血を受ける。
赤く暗い、その染みが袴だけでなく別の何かを蝕んでいく。
いつから、だろうか。
心が、瞳が、鈍くなっていく。

(……誰か、俺を)

「おかえりなさいませ」

小萩屋の裏口から身を潜ませる。まだ女中が働いていた。その中の一人が緋村に気付いて声をかける。そしてすぐに足を洗う桶を用意した。

「……その前に、お手とお顔を」
「巴、さんか」
「……血が。お怪我を?」
「いや」

手渡された手ぬぐいを水に浸して左頬を拭う。ひり、と痛んだ。

「……また、人を殺めてきたのですね」

巴の声に感情は無い。

「それが、俺の仕事だ」

同じように感情を乗せない声で答え、乱暴に頬を拭い手を洗う。そして用意された桶で足を清め、部屋に上がる。巴は後ろについてきていた。

「言いたい事があるなら、言えばいい」

黙って布団の支度をする巴の背中に、緋村は言った。巴が振り向く。その目はただ、黒い闇をたたえていた。

「……一つ、お尋ねしてもよろしいですか」

珍しい巴の問いかけだった。頷けば、巴はまた背を向ける。

「人を殺して得られる幸福とは、何ですか」
「……………………」
「……あなたは新時代のために人を斬るという。それが本当に、あなたの言う『誰もが幸せに暮らせる時代』に繋がるのですか」
「……君には分からない。維新志士と君では立場が違う」

責められることに対し、何も感じなかった。
だが、少しずつ何かが広がっていく。
この感情は、何だ?

「立場で言うのなら、私はあなたたち維新志士が目指す新時代に間違いなく生きる者の一人です。私は、誰かの屍の上に立つ時代に生きねばならないのですか。あなたたちは人々に、そんな地獄のような生き方を選ばせるのですか」

巴の言葉はいつになく熱を帯びている。それが不思議で、ついこちらも熱くなる。

「それでも俺たちは誰もが安心して暮らせる新時代を夢見る。虐げられる事のない、飢えることのない時代を」
「その裏にある殺人は、許されるのですか」

巴が振り向く。その目は、冷たい光を湛えている。

「……人を殺めた罪は、どうしたら許されるのですか」

「……………………」
「あなたには、分からないかもしれません」

巴は布団を敷き終えると黙って部屋を出て行った。緋村は完全に気配が遠のくのを確かめ、その布団の上に身を投げ出す。

(白梅香の匂いがする……)

急に思考が落ち着く。殺気立った心が冷静さを取り戻す。

(……調子が、狂うんだ。あの女が側にいると……)

巴が語った言葉の意味を、あえて深く考えないようにした。考えれば、己の矛盾に苦しむ事になる。そんな葛藤は人斬りには不要なのだ。ただ、刀を握るだけなのだから。

(何なんだ……あの女は)

少し前に出会った巴は、そのままこの宿の女中になった。
そして、俺の前に立っては何か言いたげな目をする。

(……煩わしいんだ……全て)

何も考えるな。考える必要なんて無いんだ。
ただ、この刀だけ。
刀だけ、握り締めていれば。

 

 

 

「そんな刀では、私を殺すことはできませんよ」

飛び起きた。
そこはいつもの部屋だった。声が聞こえたと思ったが、それは夢だった。

「……殺す……?」

夢の中で、誰かがそう言った。
知らず、刀を握り締めている。
嫌な汗に背筋が震える。まだ夏の前だというのに、寒気がした。

(くそっ……)

夕暮れだった。
いつの間にか眠っていたらしい。開け放した窓からは涼しい風が入り込む。

「……夢?」

思わず手の刀に目をやる。刃こぼれ一つないそれは、確かな重みを伝えてくる。
人の肉を断ち命を奪った、その重み。
まだ、この手で握ることができる。

(まだ……)

呼ばれて開いた襖を見る。巴が掃除の出で立ちでそこにいた。

「よろしいですか」
「……ああ」

巴が静かに部屋に入ってきた。

「何度か声をお掛けしたのですけれど……お休みでしたか?」
「……ああ」

通り過ぎた瞬間、白梅香が漂う。それを振り払うかのように部屋から出た緋村はふと今しがた見ていた夢のような幻の中で聞いた声を思い出した。

「そんな刀では……」

声に出してなぞる。
聞き覚えのある声のように感じた。

「どうかしましたか」

襖の前で立ち尽くす緋村の背に巴が呼びかける。何でもないと振り返りもせずに返し、部屋を出た。仲間たちの姿を避けるように庭に出れば、見上げた自室で巴が掃除をしている。

(あの声……)

私を殺すことはできませんよ。

なぞる言葉は、確かに。

「……巴」

では、どんな刀であれば君を。

天誅。
そんな言葉で示される正義の名の下に、刀を振るう。
季節はいつの間にか夏を目前にしていた。京の町を熱い風が走り抜ける。それは時代だった。

「……新撰組? ああ、聞いています。幕府方の剣客集団だと」

この日、日没間際に小萩屋に桂が姿を見せた。沈鬱な面持ちで緋村の前に座っている。そして新撰組を知っているかという問いを投げた。

「そうだ。会津藩御預りの、な。恐らく幕府方の勢力ではこの京で最も強い」
「強い? 成り上がりの農民崩れと聞いています。個々の剣の技量はそうであっても組織としての力はまだ長州に及ばない。俺はそう、思いますが」
「確かに。だが、それ故に勢いもある。この時期、幕府に余計な知恵を持たせるわけにはいかん。いくら田舎侍の寄せ集めとはいえ、そのような集団を組織した事実にこそ意味がある」
「……壬生の、狼ですか」
「気をつけろ、緋村。いずれお前にも剣を交えてもらう事になろう」
「……はい」

桂のもとを辞し、自室へ戻る。
背中が汗ばんだ。
それは、暑さのせいだけではない。

(新撰組……壬生の狼……)

未だ知らぬその力の向こうに、正義と殺戮がある事を奴らも知っているのだろう。
身分や立場を越えてこそ辿り着ける、世界。
ならば。
ただ、己の信念を。
この、刀にこめるだけ。

けれど。
この胸の淀みは何だ?

ただ、新時代を夢見て。
そのために人を殺す俺の中に生まれた、この淀み。

「人を殺して得られる幸福とは、何ですか」

いつかの言葉が、よみがえる。

「人を殺めた罪は、どうしたら許されるのですか」

まるで、自らも人を殺した事があるかのような言葉。

あの女が、俺を狂わせる。
たまらなく、眩暈のように。

だから。
狂わせるから、壊すんだ。
もう、こんな迷いはいらない。

刃を、喉に突き立てていた。

「……私を、斬るのですか」

殺すのではなく、斬ると言う。巴は真っ直ぐに見上げてそう言った。緋村によって褥に組み敷かれ、刀を喉元に突き付けられているというのに、その目に怯えは無い。

「それとも、抱くのですか」
「可愛げの無い女だな」

小萩屋の緋村の自室。階下に人気の無いこの夜、連れ込んだ巴はいつものように白梅香を漂わせている。

「……何故、香水を」
「お気に召しませんか」
「そうじゃない」
「……血の匂いを、隠してくれますから」

あなたには、似合いませんね。
そう巴が告げた瞬間、緋村の中の何かが弾ける。
そのまま刀を放り投げ、変わりに空いた手で目の前に広がる白い小袖の胸元を割った。着物より更に白い肌が露になり、巴は今度こそ抵抗するように身をよじった。

「殺すのですか」
「大袈裟だな」
「私を抱いたら、私は死にます」
「………………」
「それでも」
「だったら、何故此処にいる」
「………………」
「居付いたのは、君だ。俺の女だと周囲に誤解を与えたまま、君は……!」

俺を壊し、俺を癒し、俺を。

俺を、狂わせる。

「巴……」
「やめて……下さい……」

女の肌を欲しいと思ったことは無い。
だが、今夜は違う。
欲しいのではない。ただ、己の証を刻み付けたい。
己の正義、信念、そして希望。
その全てを目の前のこの昏い女に刻みたい。
それは、己を知って欲しいという幼い欲求と、あなたを知りたいという幼い恋のようだ。

恋の、ようだ。

帯を解く。それがゆっくりと体から離れていく。
髪が褥に広がり、瞳は迷いながら互いの指を探した。
でも、どうしても辿り着けない。
君の唇までは、どうしても。

「あ、……ッ」

ふと漏れる女の声。それはまさしく情事の艶めいた声だ。
人形みたいだと思っていた女に確かに血が通っていたのだなと、そんな思いを巡らせながら触れる体は次第に熱く、一つになろうと溶けていく。
それでも、まだ許されない唇。
避けるように喉に吸い付けば、それは殺める仕草に似ていた。

「……口付けは」

巴の声が響く。どこか色めいた、静かな声。

「……なに」
「……一度、だけ」

その次の瞬間には、もう体は繋がっていた。
荒い呼吸の下で見る巴は、ひどく美しかった。

こんな女は、見たことが無い。

俺を殺したいのか、俺に殺されたいのか。
それとも、共に生きたいのか。逝きたいのか。

抱かれたら死ぬと言った君は。
もう、俺の腕の中で溶けていく。

ならば俺は、崩れかけた信念をもう一度取り戻すためにこの女を抱くのだろう。
全てを否定し全てを肯定するために。
そして、己の想いを刻むために。

「口付けは……一度しか許しません……」

その声を待たずに俺は巴の唇に死の接吻を与える。
どんな刀でも君を殺せないのなら。
この口付けで、君を奪ってしまえばいい。

この我侭で凶暴な、それでも正義と呼ぶ心のままに。

恋でもいいと、思った。