【 季節外れの 】

季節外れの雪に見舞われたのは、弥生の末。

昨日まであんなに暖かかったのにと、桜の蕾でさえ驚くほど今朝は急に冷え込んだ。まさかと思い縁側に出てみると、昼を過ぎて空が曇りだし、やがて灰のようなものが降ってきた。それが雪だと弟に言われるまで、分からなかった。

「もう卯月になるというのに、雪なんて……」

「姉ちゃん、積もるかな?」

「羽のように軽いもの、すぐ溶けてしまうでしょうね。さぁ縁、風邪を引くから中に入りましょう」

弟の手を引いて家に戻る。そうだ、今朝から父は外出している。この雪で難儀しているかもしれない。夕刻に無事帰ってこれるだろうか。

「桜の蕾も、雪かぶっちゃったね」

「ええ……」

弟が庭の木を指した。小さな坪庭の片隅に植えられているその桜は毎年春になると美しい花を咲かせる。もうじき開花という今日になって見舞われた雪に、蕾はすっかり覆われていた。これでは開花は少し遅れてしまうかもしれない。

何故か、胸が騒いだ。

「ちゃんと咲くかな」

弟に聞かれ、その頭を撫でながら空を見上げた。相変わらず雲に覆われ、光は差し込まない。桜の蕾のように、何もかも覆われてしまった気分になる。

「……咲くわ、きっと」

弟は桜の開花を待ち侘びている。

不安定な世間の情勢の中でひっそりと生きるこの家の者にとって、春の訪れは、桜の開花はそれだけで気持ちを和ませてくれるからだ。

そして、何より。

「そうだね、だってもうじき……」

もうじき、あの人が帰ってくる。

春の訪れとともに。

桜の花が開く、その音に重ねて。

あの人が。

「あれ、父上」

弟が声を聞きつけて表の門へと駆け出す。庭に小さな足跡がいくつも刻まれた。父が帰ってきたらしい。朝早くに急に呼び出された理由は知らないが、雪に立ち往生せずに済んだことに安堵の息を吐く。弟を追いかけていくと、門には父だけではなく見知った顔が揃っていた。

「巴……」

「父上、それに皆様お揃いで……何か……?」

父がうなだれたように、こちらを見て視線を逸らした。

その肩に、白い雪がうっすら積もっている。

弟も同じように不思議そうに周囲を見渡していた。真っ先に口を開いたのは、義母にあたる人だった。

「巴ちゃん、よく……落ち着いてよく、お聞きなさい」

その沈んだ声は、曇天の下でも鋭く聞こえた。

何故か、胸が騒いだ。その理由が、雪の中にぼんやりと浮かんでくる。

「あの子が……明良が……」

 

                さよなら。

季節外れの雪は、あの人の声無き帰還でした。

                さよなら、どうか。

 

 

 

 

 

 

「おかえりなさい」

声をかけると、夫は背負った荷物を土間におろして大きく息を吐いた。

「参ったな、雪だ」

「もう……?」

「ああ、まだ霜月に入ったばかりだというのに」

夫はその長い髪に薄く積もった雪を払う。そして囲炉裏の前に腰を下ろした。
僅かに吹き込む風も雪の匂いがした。戸から顔を出して見れば、外は薄暗い。遠くの山は頭がすっかり白くなっていた。

「京都を少し離れると、本当に山の中なんだな」

「薬は、売れましたか?」

「この雪で人も少なかった。積もると、厄介だな」

そう言って夫は囲炉裏の小さな火で両手を暖めた。かざす手のひらが、揺れて見える。

「すぐ、止みます」

「どうしてそう思う?」

「季節外れの雪なんて、すぐに」

「……ああ」

視線を夫からまた手元に戻す。夕餉の支度にはまだ少し、時間がかかるだろう。

だけど。

「明日は畑に手を入れないと……」

だけど。

夫の、手のひらが目に焼きついて。

子供のような、あの手が。

「巴?」

「いえ、なんでも……夕餉まで暫くお待ち下さい」

「構わない。少し、薪を持ってくるよ」

そう言って立ち上がった夫はまた外に出て行った。

風だけが、執拗に吹き込んでくる。何故か胸が騒ぎ、夫を追って外に出た。冬のような寒さだ。

「……あなた?」

裏手を見て回るが、薪を積んだ小屋に夫の姿は無い。足跡は薄く、家の周囲に点在している。

「どこに……」

どうして夫を探しているのか、分からない。

だが、ひどく胸が騒ぐのだ。

こんな、季節外れの雪の日は。

帰るはずの人が。

こんな、胸騒ぎの時は。

帰るはずの……。

「巴、どうしたんだ」

背後から声がして、振り向く。華奢な肩に雪を乗せた夫がそこにいた。

「あなた……」

「巴?」

「姿が、見当たらないので心配して……」

夫ははにかんだ笑みを見せた。

「畑の方が心配で、つい」

「そう、でしたか……」

「すまない。家に入ろう、冷える」

その言葉に従い、家に戻った。小さな火が、今はとても暖かい。

「巴、頭に」

「はい……?」

ゆっくりと伸ばされた夫の指が、そっと頭に触れてくる。優しい動きの後に、雪が溶けた。

「風邪を引く」

「……あなたも」

同じような仕草で夫の頭を撫でると、じんわりと熱が漏れていった。

雪が溶けていく。

季節外れの、雪が。

「君は、あたたかいな」

あなたの熱が、沁みてくる。

幼い声の中に潜む熱が、言葉となって、深く。

私の中の、雪を溶かす。

                さよなら、どうか、幸せに。

あの日のままの、瞳さえ溶かして。