【MOTHER】

ちいさくて、あたたかな、あなたの命に触れる時。

 

 

 

 

諦めの悪い女なの、私。
火影になる夢だって、彼と恋を始めた後も捨て切れなかったし。
彼が四代目を継いだ直後は半分本気で「私の方が向いてる」って言った事もあるくらい。
……諦めが相当悪いのよね。幼い頃から周囲と争う事が多かったからかしら? もっと素直になれと何度言われたか知れない。
それでも自分が決めた道を一人で歩いていくためには戦う事も必要だったの。女だからって誰も容赦してくれなかったし、そんなものいらなかったから。
でも……でも、これほど「諦めたくない」と思った事は無いわ。
胸が張り裂けそうなの。
あなたの体温を知ってしまったから。
この腕で抱きしめてしまったから。
あなたの声で「母ちゃん」と呼ばれてしまったから。
嬉しさと……同じくらいの後悔で胸が張り裂けてしまいそう。

「ナルト……!」

あなたを手放したくない。離れたくない。
ああ、どうして私……消えてしまうのかしら。
(消えたくない……ナルトの側にいたい!)

死にたくない。
死にたくない。
あなたと共に生きたいのに。

 

(ごめんね……ごめんね……)

 

どうか消える前に、夢でもいいから。
……愛してるわ。誰よりも。私の命なんてちっとも惜しくないのよ。
あなたが強く生きていけるのなら、いくらでも捧げるから。

 

だから、お願い。
泣かないで。

私の……愛しい息子。

 

 

 

 

 

はっと意識が戻ったのは泣き声のせいだった。
うぎゃああああああと威勢のいい赤ん坊の泣き声だ。
(私……寝てたの?)
頭がぼんやりとして思考がはっきりしない。
うたた寝でもしてしまったのかと思い、そして。

「きゃあああああああああああ」

赤ん坊にも負けない悲鳴を上げてしまった。

 

目の前に赤ん坊がいる。
(どうして……私、消えたはず……)
その赤ん坊がナルトだと直感で分かった。分かってしまった。

オレンジ色の産毛、ミナトに似た目元。私にそっくりな口元。
そして……私だけが感じられるアイツの気配。
(やっぱりナルトの中にいるのね……九尾)
恐る恐る腕を伸ばしてナルトに触れた。……温かい。

「……私、幽霊じゃないみたい」

この手でちゃんと触れられる。それを確かめた後は、もう。

「……嘘でも夢でもいいってばね……ッ! ナルト―――――――――― !」

成長したナルトの次は赤ん坊のナルトを抱きしめられるなんて。
(神様が夢でも見せてくれたのかしら)
いつの間にか泣き止んだナルトが目を大きく見開いて私を見ている。
何て美しい青だろう。

「ナルト……お母さんだよ? 分かる? ねえ、分かる……?」

涙で冷たく濡れた頬を小さな頬に押し当てた時、急に違和感を感じで顔を離した。

「…………」

肩口で揺れる己の髪は黒い。咄嗟に辺りを見渡す。六畳ほどのこの部屋は子供部屋だった。
壁の鏡に己の姿を映してまた息を飲んだ。腕に赤子を抱く二十代後半くらいの見知らぬ女性。

……それが、私だった。

「……誰……?」

私じゃないのに、私がいる。

 

「どうしたの、センカさん? 凄い悲鳴だったけど?」
部屋に駆けつけてくる足音の後で聞こえた声。
扉が開いて入ってきた年配の女性の顔はどこかで見た顔だった。だが呼ばれた名に聞き覚えは無い。
(センカ……それが、この肉体の名前……?)
「な、何でも無いんです」
「そう? それじゃあ私ちょっと出掛けてきますから、その子の面倒お願いね」
「は……い」
そう言って女性を見送った後で思い出した。三代目様のお屋敷で家事を取り仕切っていた人。という事はここは三代目様のお屋敷なのだ。
ナルトは三代目様に引き取られたらしい。ならばこのセンカという人物はナルトの養育係なのだろう。
「そうか……よかったわ、三代目様なら事情を汲んでしっかり面倒みてもらえるでしょう」
自分の死後にナルトがどうなったのか詳しい事は分からないままだった。 息子がどんな生い立ちなのかさえ知らないなんて……そう思うと胸が痛い。するとまたナルトがぐずり出した。
「やだ、オムツかしら……えっと、新しいのはどこに……」

思えば私は母親なのに子育てを一切していない。
(ダメね……こんなんでナルトに母親面してたのかしら)
少年から大人へと変わる年頃のナルトは少し幼いけれど真っ直ぐ育っていた。 親がいない寂しさをたくさん味わってきただろうに、その瞳には憎しみにも打ち勝つ強さが宿っていた。

「あ、あったあった。でも……オムツってどうやって替えるんだっけ」
妊娠中にミナトと一緒に練習した事があった。晒を用意して自分でも何枚か縫ったのだ。あの頃はまさか……出産直後に死んでしまうなんて思ってもみなかったけれど。
「さぁ、ナルト。オムツ替えるからね。ちょっとヘタだけど許してね」
ぎこちない手付きで何とか取り替え終わると今度はお腹が空いたのか泣きながら手を伸ばしてくる。 部屋の隅にある粉ミルクの缶とポットを見つけて記憶を手繰りながらミルクを作った。
「このくらいの量でいいのかしら……」
何も分からない。ミルクの作り方だって妊娠中に読んだ雑誌に書いてあった事を何とか思い出して作った。 実際作った事なんてない。どのくらいの量を与えていいのかも分からない。そんな情けない自分が腹立たしい。

「ナルト……お前、今、何か月なの? それさえも分からないなんて……私……」

やっぱりもう、母親じゃないんだ。
(やだ……泣くなんて……)
ナルトに泣き顔を見せたくなくてミルクを飲ませながらそっと顔を背けた。
(嬉しいのに……これが夢でも幻でも、赤ちゃんのナルトに会えただけでこんなに幸せなのに……!)
同時に、自分が母親らしい事を何一つしてやれなかったのだと残酷に突き付けられる。
ナルトがどんなに寂しかったか強く思い知らされる。
明るく元気に育ったように見えても屈託はあっただろう、人を恨み環境を恨み、悔しくて泣いた夜もあっただろう。
それでもナルトは私たちの子でよかったと言ってくれた。
己の運命を、人柱力としての悲しい道を受け入れてくれた。
心が強くなければ言えない言葉をナルトは己の手の中に握っていた。
(悔しいよ……!)
こうしてナルトは母親ではない人の手で育てられたのだ。
そこに愛情はあっただろうか?
優しく慈しんでもらえただろうか。あたたかい言葉をかけてもらえたのだろうか。
(ねえ……このセンカという人はあなたを大事にしてくれている……?)
大人しく腕に抱かれているところを見ると母親代わりに思っているのだろうか。
それなら……いいのだけど。
「……ナルト……」
ミルクを飲み終えたナルトが満足そうに目を閉じた。
「そうだ、げっぷをさせるのよね。こうして、肩に担ぐようにして……」
うろ覚えの雑誌の記事を思い出しながら顎を肩に乗せるようにだいて背中を軽く叩く。しばらくして小さなげっぷが出た。見ればナルトはもう半分眠っていた。
「かわいい……」
小さなベビー布団に寝かせて隣に横になった。
震える瞼。薄く開いた口唇から寝息が漏れている。

私の知らない……当たり前の幸せ。
ここにミナトがいれば訪れるはずの日常の光景になるのだろう。
あの頃は信じて疑わなかった。子供を産んで、ミナトと二人で育てて……四代目の妻になったからといって生活は何も変わらなかったから、これからも変わらず続くのだと。
家族が増えて、幸せは増すのだと。
他の家庭と同じように、平凡に穏やかに。
三人、一緒に。

「……ここは……過去なの? それとも幻なの……?」

目の前のナルトは間違いなく私の子だ。うずまきナルトを名乗る運命の子だ。
九尾をその身に宿し、やがて来る日のために生きて行く子。世界を守る子。
ならば私の意識は過去に飛ばされてきたのだろうか。
やっぱり神様が夢を見せてくれたのだろうか。
あまりに幸せで……そして、悲しい夢を。

「なんじゃ、寝てしまったのか」

扉が小さく開いた。顔を覗かせたのは三代目様だった。

「三代目様……!?」
「どうしたセンカ。……ん?」

三代目様の視線が急に鋭く私を捉える。

「いや、お前は……」

どきりと胸が冷えた。その視線が私とナルトを交互に見比べ、そして。

「クシナか……?」

思わず「はい」と、答えてしまった。
そんなはずないか、と三代目様が首をかしげながら部屋に入ってきた。

「あ、あの、」
「ナルトの新しい服じゃ。そろそろ大きいのが必要だと言っておっただろう」
「はい、あ、あの……」
「儂の目も耄碌してきたのかのう」
「いえ、あの、私……」
「ふむ、よく寝ておる」
しばしナルトの寝顔を見つめた後で三代目様は出て行ってしまった。
(な……何だってばねもう!)
いきなり名を呼び当てられたのに、三代目様は勘違いだと思ったのだろう。
確かに、普通はそう思う。
すでに私は死者だ。この世には存在しない。ナルトの中で僅かなチャクラとして残るだけ。それが何かの拍子に意識体になり、この世話をする女性に憑依してしまったのだ。
それも長くは無い。次第に自分の意識がこの宿主をコントロールできなくなってきている。

本当に、夢のようだ。
淡く消えてしまう。
実の子の側にいる事さえかなわないなんて。

(お母さん……なのに)
じわりと熱いものが瞳に浮かび、それが目の前のナルトの顔を滲ませる。
勿体無いと振り払って隣に横になった。
(あの日も……生まれたばかりのあなたをこうして抱いたのよ……)
ミナトの背中を見送った。
すぐに戻ってくるという言葉を信じて。
(いいえ……それは嘘ね……)
九尾を抜かれた時から分かっていた事だ。
四代目の羽織を手に私に背を向けたミナトの目がそれまで見たことの無い程の色をしていた。あれは多分彼の心の底からの怒りだったのかもしれない。
ただ私と子供を守る事を誓った彼の、本気の姿だった。
(見せたかったなぁ……ナルト。あなたのお父さん、本当に素敵だったのよ)
やわらかな額を撫でながら頬を寄せた。寝息が聞こえる。
「ナルト……」
過去でも夢でもいい。今は、こうして。
「あったかいね……」
手を伸ばしてナルトの背中をさすった時、突き刺すような痛みが走った。
「!」

―――――――――― クシナか……!

腹の底に響く獰猛な声。

「お前……『九尾』ね……!」

ナルトの体から聞こえる声は確かにあの尾獣の声だ。
この身の内に宿らせ封じてきた、あの禍々しい獣。

―――――――――― どうして貴様がそこにいる!

「そうね、私も不思議に思っていたところよ……」

思わず身構えても体内でチャクラは練れない。この肉体は忍では無いのだ。
(どうする……九尾がこれ以上表面化したら危ない……!)

―――――――――― どうやら時空間が何かのはずみでねじ曲がったな……だが、

次第に戻りつつある。
九尾はそう呟いて僅かに語調を緩めた。

「ちょうどいい機会だからあんたに言っておくわ。ナルトに手を出したら許さない」

―――――――――― 手を出す? フン、封じられて何ができるというのだ。

「それでもあんたはこうして表面に出てきた。私のチャクラがあんたに共鳴してしまったせいね……私が消えればあんたもまた眠りにつく。だからその前に言っておく。ナルトを内から食おうなんて思わない方がいい。ナルトはただの人柱力じゃない。封じるだけの形代じゃないの。いつかきっとナルトはあんたと出会う。間違いなくそのチャクラと戦う日が来る。その時は……」

―――――――――― まさか手を貸せなんてふざけた事を言うつもりじゃないだろうな。

「いいえ……その時こそあんたは人柱力に負ける。かつて誰も成し得なかった事をナルトはやるの。……だからその時は」

ナルトを、試して。
あんたの力を与えるのに相応しい器かどうか。
何百年もの間、人の中から人を見てきたあんたならきっと。

「不思議ね。……何だか、母親の代わりを頼んでる気分だわ」

九尾の嘲笑が聞こえた。
ナルトがふと目を開けた。その青い瞳が私の顔を映し出す。

「また、会えるってばね。……ナルト」

それまで、ほんの少しお別れだけど。

―――――――――― フン……

九尾の気配も消えた。
自分の意識もどんどん薄くなっていく。
ナルトが僅かに驚いたような顔をして、そして泣きだした。

「ナルト……ナルト……!」

抱きしめながら何度も名を呼んだ。

いつか世界を救う子。
けれど、お前の心は一体誰が救ってくれるのだろう。
寂しさでいっぱいになった心を、誰が温めてくれるのだろう。
どうか一日でも早く、その人に出会えますように。
……寄り添えますように。

「……大好きよ、ナルト」

私は諦めない。諦めたくない。
(また出会えると知っているから、その日まで、絶対に)
あなたの夢を、諦めない。

小さな手を握った時、私の意識はまた深く深く沈んでしまった。

 

 

 

 

 

 

「センカ! センカ!」
三代目が突然九尾の気配を感じて部屋に駆け戻った時、赤子は女の腕に抱かれていた。
「どうされました、ヒルゼン様」
「いや……今、確かに……。うむ、何か変わった事は無かったか?」
「はぁ……そういえば少し寝てしまったようで……その間にどなたかいらしたのでしょうか? ミルクを飲ませてあったので」
「そんな事は知らん。他には」
「特に何もございませんが」
「そうか……ならば良いが……」
三代目が訝しみながら赤子に近付く。
「…………」
頭を撫でて三代目は部屋を後にした。扉を閉めた後で大きく息を吐く。
「似てきたのう……父親に」
間違いなく九尾の気配だった。もしや封印が解けたのかと思って駆けつけてみたが赤子に変化は無かった。ただの気のせいにしては随分と濃すぎたのだ、気配が。
だがやはり気のせいだったのか。
それともやはり、
「クシナ……そなたじゃったか……?」
やはり母親似かもしれぬ。
そう思い直して三代目はこの出来事を胸の奥にしまいこんだ。

 

 

 

 

 

- 終 -