【はつ恋】終

 

その日はひどく暑かった。
朝からおかしな程気温が上昇し、三十五度を超える猛暑日になるでしょうと天気予報が伝えているのを俺は広げたノート越しに見ていた。
夏休みも残り僅か。合宿は終わったが週に何度か部活はある。
今日は剣道部は休みだが左之助たち野球部は練習日のはず。最悪だろうなと思いながら氷が溶けきったグラスの麦茶を飲んだ。
「おい、いるか」
そこで玄関の外から声が聞こえた。斎藤の声に間違いない。
何の用だ、親父ならとっくに京都に戻ったと抗議の言葉を用意しながら玄関を開けるとそこに真夏でも真っ黒の背広を着た斎藤がいた。
「……緋村」
「何だよ、いきなり来て。親父ならとっくに京都に戻ってるけど」
「雪代が高校を今月末付けで退学する」
「……え……」

巴が、高校を、退学、する?

その理由はすぐに分かった。
清里先輩の怪我の責任を感じて「彼の側でずっと彼を支える」と言っていたのだ。
だから退学を決めたんだ。予想はしていた。
「その様子じゃ知っていたか」
「でも……こんな急に……」
「清里の怪我の影響かもしれんが、まぁ一応お前に教えておこうと思ってな」
わざわざそんな事を言うために来たのか。礼を言うべきなのかもしれないが、何となく躊躇われた。
「それから、」
斎藤がふと思い出したように言いかける。
「清里と雪代が結婚すると学校に連絡が来た。式は今日、身内だけでやるそうだ」
「何だって……」
頭が割れるように痛い。
結婚。巴が……今日、式を……。
「お前のところには連絡無しか」
「……そんな……待ってるって……」
「式の場所だ。急げば間に合うかもな」
斎藤の指がタバコを弾くようにメモを落とす。それが俺の足元に落ちるより早く斎藤は玄関から姿を消していた。
俺はメモを拾った。
斜めに走る文字で教会の名前と場所が書いてあった。
電車で少しの大きな街だ。
……急げば、間に合う?
……何に?

巴。
あの時、待っててくれるって約束した。
ずっと、待ってると。
それなのに君は……。

悲しいとか悔しいとか、そういった感情は沸いてこなかった。
自分でも不思議なほど落ち着いている。どこかで予感していたのかもしれない。
いつか、こうして巴と別れる日が来る事。
そしてそれは、避けられない運命なのだと。

俺はまた部屋に戻ってテレビの前に座った。
広げたノートと、英語の教科書。後期の授業に備えて問題集を解いていた。
巴と、R大学に進学するために。
でも……もうそれは叶わない。
巴は俺と別の道を行くと決めたんだ。
自分が望んだ道ではなく、誰かに望まれた道を進むと決めた。
俺に背を向けて。

PiPiPiPi…..  PiPiPiPi…..  PiPiPiPi…..

携帯が鳴る。それにもすぐ反応できず数分経ってから表示を確認した。
着信一件。巴だった。
留守録に短いメッセージが登録されている。
俺は恐る恐るボタンを押した。
別れの言葉を聞きたくない。
でも、巴の声が聞きたい。
機械音の後で聞こえてきた巴の声は、いつかのように小さく震えていた。

 

 

 

 

 

呼び出し音は鳴り続けているのに緋村くんは電話に出てくれなかった。
今日は剣道部は休みのはずなのに……。
あの日、あの夕暮れに別れてからどれだけ時間が過ぎたのかもう分からない。
あの時から私の中で時間が止まってしまった。
緋村くんと抱き合ってから何かが終わってしまったみたいに。
でもそれはとても幸福な事で、私はとても満たされていた。
許されない事と知りながら緋村くんの愛に触れた私は生まれ変われた。
あまりの幸せに罰が当たったのかもしれない。
おばさまが自殺未遂を起こしたのは、私が緋村くんと密かに会っている、丁度その時だったから。

緋村くん。
最後にあなたの声が聞きたい。
もう戻れない私の恋。
私の、最後の恋を……あなたに伝えたい。

 

* * * * *

もしもし、緋村くん?

突然、ごめんなさい。留守番電話になってしまったから、メッセージを残しておきます。
……ごめんなさい。約束、守れません。

今日、これから、明良さんと結婚式を挙げます。
いきなりだから嘘みたいに聞こえるかもしれないけれど、本当です。
私のこんな姿、緋村くんにだけは見られたくないから……電話にしました。

緋村くん。私、後悔していません。
あなたに出会った事も、あなたと過ごした事も。
何一つ、後悔なんてしていません。
今の私は、全部私が選んで歩いてきた道なんです。
誰のせいでもありません。
それだけ……伝えたくて。

緋村くん。
もし……もし、いつか、また……あなたに会える日が来たら、その時は……。

 

「姉ちゃん、そろそろ時間だよ」

 

ごめんなさい。もう行かなきゃ。
……緋村くん。ありがとう。

さようなら。
……好き。

* * * * *

 

「姉ちゃん、急いで!」
縁の声に私は慌てて立ち上がり、携帯電話をバッグの中にしまいこんだ。そして鏡でもう一度自分を映してからドアを開けた。
「姉ちゃん……!」
縁の顔が真っ赤になるのを複雑な思いで見た。
「すっごく綺麗だよ、姉ちゃん!」
「……ありがとう。お父さんは?」
「おじさんとおばさんの所。神父さんが到着する前に写真撮るから中庭に来て、って」
そう言って縁が日傘を差し出してくれた。
「ありがとう」
「行こう!」
はしゃぐ縁が私の手を引いていく。
ああ、この手が緋村くんだったら。
そんな事を思いながら真っ白いドレスの裾を少し持ち上げて廊下を歩いた。扉の先の中庭にはお父さんとおじさま、おばさまの姿。その向こうに車椅子の明良さんが見えた。
白いタキシードの彼は花壇の花を見ている。その横顔はまだ青白い。
「行こう、姉ちゃん」
「……ええ」

そう、行くんだ。行かなければ。
私はこの道を行く。
この道でしか、生きられない。

選ばされた。
けれど、選ばざるを得なかった。
本当は、選び取りたかった。

緋村くん。
好きな人と、ただ一緒にいたい。
そんな願いさえ、私には許されないけれど。

どうか、あなたは。
剣の道を真っ直ぐに進んで、
いつか、別の誰かを好きになって。

そして、

幸せに、生きてくださいね。

 

 

 

 

 

 

泣いていたのは、俺のほうだった。
巴の声は最後までしっかりとしていて揺るがなかった。
それは余計に俺を悲しくさせた。

巴。
最後の最後まで「ごめんなさい」で終わりにしようとする君を、俺はどうしても手離せない。
だから、迎えに行く。

それが、俺が選んだ道だから。

 

教会を目指して駅から走り出した。見慣れぬ街を駆けながらそれらしい建物を探す。夏休みで人も車も多く通りは混雑していた。その合間を縫うように俺は必死で走った。
巴。巴。巴。
この声が届くように祈りながら巴の名前を呼ぶ。
もし神様がいるのなら、この声を巴に届けて。
俺を、巴がいる場所へ導いて。

全てが手遅れにならないうちに。
何もかも……投げ出すから。

神様。
他に何もいらない。
この命を差し出したって構わない。

俺は、巴じゃなきゃだめなんだ。
やっと、巡り会えたんだ。

最愛の人。
最後の恋。

思い出の雪。
迎えられなかった、春。

最期の、夏。

 

四車線の大通りの反対側に教会を見つけた時、その教会の鐘が鳴り響いた。
「あら、結婚式よ」
行き交う人のそんな声に足を止めた。
歩道から教会の入口まで低い階段になっている。その上に構える大きく豪奢な扉がゆっくりと開いてゆくのを確かに見た。

鐘の音が聞こえる。
それ以外、何も聞こえなくなった。
開いた扉から人影が出てくる。
真っ白いドレスに身を包んだ女性と、その横に並ぶ車椅子の男。
それが探していた人だと気付いた時、女性がふとこちらを見た。
……目が合った。

「巴……!」

巴の口唇が「緋村くん」と動く。
その漆黒の目が大きく見開かれるのがこの位置からでもよく見えた。
俺は無意識にガードレールを飛び越えていた。車の前を素早く走りながら反対側へ向かう。
「緋村くん!」
今度は本物の声が聞こえた。巴が階段を駆け下り道路へ走り出す姿が視界に入る。
歩きにくそうなドレスだがよく似合ってると思った。
でも彼女には和服のほうが似合うんじゃないかな。
……そう思った時、脳裏に何かの映像が浮かんだ。
和服の巴が見える。
今日のように白い着物だった。笑っている。

だけどその胸に赤い花が咲いていた。
それが真っ赤な彼女の血だと思い出したのは目の前に巴が見えた時だった。
白いドレスが雪のようにふわりと広がっている。

「巴!」

両腕を伸ばして彼女を抱きとめる。
腕に確かな重み。
耳元で巴の泣き声が聞こえた。

「緋村くん……!」
「……巴。……行こう」

はい、と返事を聞いた。
その耳に、迫る車の音が聞こえてくる。

瞬間、衝撃。暗転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めた時、頬に夫の手が触れていた。

「あなた……?」
「珍しく起きてこないから、心配して」

つい、と頭をかく姿が目に親しんでいる。
体を起こして部屋を振り仰げば晩秋の朝の冷たい風が吹き込んできた。江戸とは違い大津は冬の訪れが早い。ふ、と吐いた息はもう白かった。

「珍しいね、君が寝坊なんて」
「夢を、見ていたんです」

その内容を鮮やかに思い出せた。

「夢? どんな?」

そんな時だけ子供のような表情になる夫に語って聞かせる事にした。

「はるかな未来なのか……それとも遠い過去なのか分かりません。別世界のような場所で、私はあなたと会いました。あなたはやっぱり剣道をしていて……そして、赤い髪をしていました」
「そう」

夫は面白そうに目を輝かせる。

「今のように、二人、一緒でした」
「……よかった」
「……でも」

夢の中の夫は、今目の前に座る夫と同じようで違う。どこが違うのか思い当たった時、胸が痛んだ。

「でも? 続きは?」
「でも……夢の中のあなたは、頬に傷がありませんでした」
「……そうか」
「……どうして、でしょうか……」

私が、それを望んだからでしょうか。
傷の無いあなた。傷の無い私。
それは罪の証だから。

その傷が私とあなたを結びつけた。
絆の証でも、ある。

「それで、二人はどうなった?」
「……よく覚えていません。さぁ、起きて朝餉にしましょうか」

そう誤魔化して夫を行かせて立ち上がり布団を片付ける。着替えて土間に下りた時、

「巴、」
「はい?」
「君は……着物が似合うよ」
「……はい……?」
「何でもない。……水を汲んでくる」

夫が外に出て行く。その後ろ姿が夢に出てきた少年と重なった。あの少年は無邪気で真っ直ぐな瞳のまま自分の道を守ろうとしていた。

「……あなたも」

こんな時代に、刀を持たず人を斬る事なく生きていたらあんな少年になっていたのでしょうか。
疲れることを知らない子供のような顔で、私の名前を呼んでくれたのでしょうか。

「……緋村……くん」

夢の中の私が何度も呼んだ名前。
愛しくて愛しくて、狂ってしまいそうなほど。
いいえ……もう、狂っている。
あなたを殺すと決めた、あの遠い日から。
私は。

見知らぬ春を夢見て、
あなたの側で、

二度とは巡らない季節を慈しみながら、
静かに寄り添って、
互いの声だけを耳に、
互いの温度だけを頼りに、

この小さな家で、
二人きり。

夢の中の二人が目指していた場所。
探していたもの。
その全てが今、ここにある。

「巴?」

水を汲み終えて戻ってきた夫に、私は言った。

「春になったら……」
「うん?」

桜を見に行きましょう。
川の水面を染める花弁、全てを桜に染まる風。
二人で、見に行きましょう。

……約束。

「……いいえ、何でもありません。朝餉にしますから待っていてください。……あなた」

あなたが微笑むその顔を、
あなたが私を呼ぶ声を、
あなたが私に触れるその指を、口唇を、

私はいつまでも覚えているでしょう。
百年経っても。
全て、覚えていられるから。
……だから。
(それがどんなに罪でも)

 

 

あなたとなら、何度でも恋に落ちる。

 

 

 

 

<終幕>