【はつ恋】⑦

姉ちゃんの様子は明らかに変だった。
明良兄ちゃんの手術が終わってから急に雰囲気が変わった。
最近少し明るくなったような気がしていたのに、また以前の……昔の姉ちゃんに戻ったようだ。
声をかけても反応が無い。ずっと部屋に閉じこもっている。
俺は部屋の前で何度も何度も姉ちゃんを呼んだ。
でも姉ちゃんは、一度も俺に答えてくれなかった。

姉ちゃんがこんな状態になってしまったのも、
明良兄ちゃんが交通事故で剣道ができない体になってしまったのも。
全部、アイツのせいだ!
あの日、姉ちゃんの側にいた男。
名前は知らない。でも、顔はしっかり覚えている。
アイツが全部おかしくしたんだ。
アイツが姉ちゃんを変えて、明良兄ちゃんをあんな目に遭わせたんだ。

俺は、絶対アイツを許さない。

許さない。許すものか。
アイツさえいなければ……!

その時、家のインターホンが鳴った。
親父はいない。姉ちゃんは部屋から出てくる様子も無い。俺は点滅するドアホンで来客を確認した。
……アイツだ!
姉ちゃんに会いに来たんだ。
もちろん会わせるわけにはいかない。俺は姉ちゃんに気付かれないよう足音を消して玄関を出てマンションの一階のエントランスに向かった。

「君は……?」
「お前、誰だ」
俺は目の前にいた男を睨みながら言った。面食らった様子の男は俺より少し背が高い。髪が赤くて、女みたいな印象だった。
「俺は、緋村。君は巴の……?」
「弟だ! お前が……緋村剣?」
名前は知っていた。この学区で一番強い奴。明良兄ちゃんよりも強いと聞いていた。それがよりにもよって、こいつだなんて。
「緋村剣! お前のせいで明良兄ちゃんは事故に遭ったんだ!」
思わず叫んでいた。憎しみと悲しみがゴチャ混ぜになって俺の中をぐるぐる回っている。止められない。言葉が次々と飛び出していく。
「俺のせい、って……」
「お前が姉ちゃんに近付くから! 姉ちゃんは明良兄ちゃんと結婚する約束だったんだ! お前が邪魔しなければ姉ちゃんも明良兄ちゃんもこんな事にならずにすんだんだ!」
「…………」
「お前のせいで……お前のせいで……ッ!」
驚いて立ち尽くす相手に向かって俺はただ怒りをぶつけた。
姉ちゃんの事、そして明良兄ちゃんの事。その全ての原因はこいつにあるんだ。
こいつが姉ちゃんに近付かなければ何も無かったのに。
悪い事は何一つ起こらなかったのに。
「……巴は家にいるのか? 巴を呼んでくれ」
「断るッ! もう二度と姉ちゃんには会わせない! 姉ちゃんに近付くなッ!」 「どうして! 俺は……っ」
「お前のせいで明良兄ちゃんはもう剣道ができなくなったんだ!」
人には言ってはだめ。
そう強く言われていた事実を俺はつい叫んでしまった。
緋村の顔色が変わる。俺はもう、隠さない。
「そんな……意識は戻ったって……」
「そうだ! でも……足の神経がダメで、もう剣道は……! お前のせいだッ! お前が姉ちゃんを惑わすから……だからこんな事になったんだッ! お前さえいなければ……ッ!」

こいつが姉ちゃんを、明良兄ちゃんを、
二人を壊したんだ。

「もう姉ちゃんに近付くな!」

これ以上こいつを前にしていたら殴りかかりそうだ。
その衝動を何とか抑えて俺はエントランスのドアの内側に走った。
姉ちゃん、もう大丈夫だよ。
これから姉ちゃんは静かに暮らしていける。
明良兄ちゃんはもう剣道ができないけど、でもリハビリをすれば今までのように歩けるようになるって言ってたじゃないか。
姉ちゃんが側で看病するならきっと早く良くなるよ。
今すぐ結婚するっていうのは寂しいし嫌な気分もするけど、でもそれが姉ちゃんの幸せだって思うから俺は我慢するよ。
明良兄ちゃんの分まで俺が剣道を頑張る。

だから姉ちゃん。
もう、アイツの事なんて忘れてよ。
高校も辞めて、明良兄ちゃんの側にいてあげなよ。
じゃなきゃ、明良兄ちゃんがかわいそうだ。
そうだよね、姉ちゃん。

 

 

 

 

どうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。
気がつけば自宅の前にいた。玄関を開ければ父親が怪訝そうな顔で待っていた。そうだ、飯を食いに行こうって話していたんだ。
「どうしたんだ、剣。……顔色が悪いぞ」
父親は俺のせいで一人の剣士が剣道の道を絶たれたと知ったらどんな顔をするだろう。
スポーツとはいえ人と人との勝負、傷を負う事を恐れず、けれども忘れずにいろと昔から教え諭してくれたのに、俺は人を深く傷つけてしまったんだ。
永遠に癒えない傷を与えてしまった。
そして、それ以上に巴を悲しませたんだろう。
何よりも誰よりも大切にしたいと思っていたのに。
「おい、剣」

巴は俺を恨んだだろうか。
俺と関わらなければよかったと、後悔しているだろうか。
会いたい。声が聞きたい。
何と罵られてもいい。
嫌いだと、平手打ちを食らったって構わない。
俺は何もかも捨てる。
巴の手を、離したくない。
そのためなら。

「……俺、剣道、やめる」

「剣……?」
父親の顔を見上げ、俺は言った。
「高校も剣道もやめる。京都に行く」
「どうした、いきなり」
「……決めたんだ。俺が剣道を続ける事で巴が傷付くのなら俺は剣を捨てる」
「……何か、あったようだな」
「…………」
「何、寝惚けた事言ってやがる! バカが!」
「……俺は、本気です」
「ガキのくせに生意気な事を言うじゃないか。 ……話を聞いてやるからさっさと部屋に入れ」
俺は黙って部屋に入った。
何から話せばいいのか分からない。子供の幼稚な恋だと笑われる事も承知している。だから素直に話す気になれなかった。
そんな俺の心を見透かしたのか、父親は俺に背を向けた。
「……剣道を辞めると言ったな。それしか取り柄のないお前が剣の道を諦めるというのか」
「諦めるんじゃない。……捨てるんだ」
「何故だ」
「……もう、誰も傷つけたくないから」

巴。
俺は、何も知らなかった。
知らずに君を好きになったんだ。

君と清里先輩の関係も、そして彼が剣道の道を絶たれた事も。
それでも俺は君を諦めきれない。
剣道を捨ててでも、君と生きたい。

どんなに憎まれてもいい。
誰に罵られても構わない。

君の手を取って、共に歩いていけるのなら。
そこが地獄だろうと、渡ってみせる。

「俺は、巴と生きていく!」

その道の先に何が待っていても。
最後まで、君を守り抜いてみせる。

 

 

 

 

 

どんなに強い決意をかためても巴と生きて行きたいと願っても、俺はまだ高校生だった。
とにかく理由を話せという父親に素直に打ち明ける気にもなれず巴と連絡も取れないまま虚しく時間だけが過ぎた。
何もなければ明日の日曜は巴と二人で出かけるはずだった。あの小さな約束を交わした日が遠い過去のように感じる。この口唇はまだ巴の体温を覚えているのに。
家にいても気が滅入ると溜息を吐き出しながら街へ出た。
もう一度巴のマンションまで行ってみようかと思った時、不意に携帯が鳴った。左之助からだった。
「もしもし、左之?」
『よぉ剣、久しぶり。元気してたか?』
「……まぁな」
『もう合宿終わったんだろ? たまには遊びに行かねぇ?』
「いや……俺は」
そんな気分じゃないのだと断ろうとした時、頭の中で閃いた。
「左之! お前、今どこにいる!」
『どこ、って駅前だけど』
「すぐ行くからそこを動くな! いいな!」
『は? ちょ……剣? もしもし、もしもー……』
電話を切って走り出す。
すぐに駅は見えてきた。ロータローのあたりで背中を丸めてポケットに手を入れた姿で壁に寄りかかる左之助を見つけた。
「左之!」
「剣! 何だよ、いきなり切りやがって」
「すまない。……頼みがある」
「いきなりかよ~とりあえず暑いしどっかで涼もうぜ」
「そうだな。……あのマックで」
「オーケィ。なぁ、頼みって何だよ? ヤバイ事ならおごれよ」
「おごるさ。……行こう」
左之助を連れて店に入り自分にはドリンクだけを、左之助にはバーガーのセットを注文して奥の席に着く。まだ昼前、客は多くない。
「で、頼みって?」
「巴の……雪代巴の携帯に電話をかけてくれ」
「俺が? ……って、雪代巴って誰よ?」
「剣道部のマネージャーだ」
「ああ、お前の女ね」
「……なんだそれ」
お前の女。
そう言われて悪い気はしなかった。
「知らねぇの? 学年中のウワサだぜ? あの剣道バカの緋村に女ができたって。しかも相手は学年一位の才女って」
「……そんな噂知らない」
「どんだけ剣道バカなんだ、お前。中間試験の後くらいから噂になってたの気付かなかったのか? お前と雪代巴が一緒に帰るところ目撃した奴も多いらしいぜ」
知らなかった。
俺と巴は、周りからそんなふうに見えていたのか。
「で、どうして俺がお前の女に電話かけなきゃなんねーんだ」
「……事情は後で話す。俺の携帯からかけても繋がらないと思うんだ。だけどお前の番号なら登録されていないはずだから、誰かしら出ると思う」
「どういう事だ」
「いいから、この番号にかけてくれ! 今すぐ!」
「何だよ、ったく……」
ぶつぶつと文句を言いながら左之助は俺の携帯に表示された番号を押して電話をかけた。呼び出し音が聞こえる。
「多分巴は出ない。家族……弟が出るかもしれない。そうしたら剣道部の斎藤だと言ってくれ。合宿を急に休んだまま連絡が無いがどうかしたのかと」
「斎藤って、あの斎藤かよ! 俺にあの野郎の真似しろって?」
「頼む、左之。お前しかいないんだ」
「……ったく、しゃあねえなぁ。……お、」
どうやら電話がつながったらしい。左之助が身振りで「巴じゃない」と伝えてくれた。
「ああ、どうも。私、剣道部顧問の斎藤といいますが。ええ……そうです。実はですね、巴さんが合宿の途中で帰宅した後から連絡が取れないもので心配しておりました。……そうですか……はい」
そこで左之助が携帯を俺に差し出した。
「親父さんが出た。巴に代わるって」
「!」
俺は慌てて携帯を受け取った。
『……斎藤先生』
巴の声が耳元で聞こえた時、心臓を掴まれたように痛みが走った。
「……巴。俺だ」
『!』
「何も言わないで聞いてくれ。……明日、午後五時、部室で待ってる」
俺はそれだけ言ってまた携帯を左之助に返した。もういいのか、という無言の問いに頷く。
「あー、雪代? 心配したんだぞ。何でもないならいい。それじゃあな」
と棒読みの台詞を一方的に捲くし立て、左之助が電話を切った。
「……ったく、ビビったぜ」
「ありがとう、左之。……これで巴に会える」
「おい、一体どうしたんだよ。お前たち、うまくいってねぇの?」
「……俺さ、剣道やめる」
「はぁ? いきなり何言ってんだよ、冗談だろ?」
「……本気だ。……剣道、やめる」
「剣……?」
「……詳しい事はそのうち話すよ。これ、飲んで。じゃあ」
「おい、剣! 剣!」
左之助を店に置き去りにして俺は家に帰った。

明日、午後五時。
俺は巴を、連れて行く。

 

 

 

 

 

 

翌日、午後五時。
俺は部室にいた。蒸し暑い部屋の窓を開けると外は雑木林が広がり涼しい風が入り込んでくる。少し汗がひいた。
部室は合宿が終わったばかりで荷物は片隅に綺麗に片付けられていた。
今日はグラウンドが静かだ。かすかに校舎の裏手のテニスコートから声が聞こえるだけ。窓から見える空はまだ青く、昼間のように明るい。
巴は来るだろうか。
一方的に告げただけで返事は聞いていない。
でも、来てくれる。そんな予感がある。
俺は片隅の古い長椅子に座ってぼんやりと空を眺めた。足元には旅行バッグが置いてある。数日分の着替えや必要な物を揃えてきた。これだけの荷物と巴を連れて約束していた水族館に行く。そしてその後は最終の新幹線で京都に向かうつもりだ。
もちろん父親には告げていない。
だが京都の家の鍵はこっそり合鍵を作っておいた。とりあえずそれでしばらくは生活できるだろう。生活費として毎月もらっていた金の残りを銀行から全部引き出して財布に入れてある。
あとは、巴が来るのを待つだけだ。

 

五時を十五分過ぎた。
今まで待ち合わせや集合に遅刻した事が無い巴だ。もう、来ないかもしれない。最初から来るつもりなど無かったのかもしれない。俺は絶望のような冷えたものが胸に溜まっていくのを感じながら暗くなり始めた空を見上げた。
窓から吹き込んでくる風は少し冷たくなっていた。聞こえていたテニスコートの声はいつの間にか蝉の声に変わっている。その物悲しい声に耳を傾けていると、とても悲しくなった。

巴を想うたびに感じていた、この気持ち。
胸を締め付ける感情。
どうしてこんなに、泣きたくなるんだろう。

「……俺じゃ、だめなのか……」

呟いてみて、だめなんだと頭の片隅で納得している。
俺は清里先輩から剣道を奪った。
そして、巴まで奪おうとしている。
そんなこと、許されるはずがない。
……巴が、それを己に許すはずが無い。

巴が来ない可能性のほうが高い事も、二人で京都に逃げる事がどんなに非現実的かも、子供の俺たちが二人で生きていく事が難しいという事も、本当は全部分かっている。
それでも、何もせずにただ見送る事はできない。
このまま巴と離れてしまうなんて……!

「緋村くん!」

バタンとドアが開き、巴が飛び込んできた。

「巴!」

息を切らしている巴が上気した頬でこちらを見る。俺は言った。

「……これから京都に行こう。俺が昔住んでいた家で、二人で暮らさないか」
「な……」

驚く巴の肩をつかむ。

「もう決めた。……巴、一緒に行こう」

頷いてくれ。そう願う俺の目の前で巴は目を伏せた。そして、

「……お別れを、言いに来ました」
「巴……」

巴は静かな声でゆっくりと告げた。

「ずっと明良さんの側で支えていくと決めました。彼の怪我は私のせいなんです。だから……」
「違う! ……俺が……俺が……」
「緋村くん」

巴は泣いていなかった。
だが、表情は何も見えない。

「あなたは剣道を辞めてはだめ。私はあなたからも剣道を奪いたくないんです。……ごめんなさい」

ごめんなさい。
その一言で君は全てを終わらそうとする。
いつもそうだった。
ごめんなさい。
泣くことも笑うこともしない君は、そうやって自分と他人をあっさりと切り離すんだ。
そして自分だけ先に行ってしまう。
残された俺は後味の悪い「正しさ」を噛み締めて、途方にくれるしかない。

「君はいつもそうだ……」
「…………ごめんなさい」
「謝るくらいなら、どうして来たんだ!」

声を荒げてから後悔しても遅い。
少し怯えたような目をした君は俺を見て、そしてくっと力を込めて言い返してきた。

「会いたかったから……最後に、会いたかったから……!」
「最後なんて……俺は嫌だ!」

思わず抱きしめた時、腕の中で巴は逃げるように体をよじる。
それを封じるように腕を掴んで上向いた顔に口唇を寄せた。

「……ンッ」

苦しそうに喘ぐその口唇の奥に舌を差し込んで深く吸えば、巴の強張った体から急に力が抜けていく。

「緋村く……」
「巴、また先に……謝っておく」

君がごめんなさいと言うように、俺も君に告解しよう。許しなんてほしくない。
欲しいのはただ、君だけ。

「ひ……む……」

巴の髪を解いて、合宿で使っていたタオルケットの束の上に押し倒す。
窓の外はもう菫色になっていた。巴の目が一瞬だけ空と同じ色になる。
そのまま首筋にキスを落とした時、巴は薄く目を開けた。

「……緋村くん……」

嫌だと言ってももう止めるつもりは無い。
だが巴は俺の髪に細い指を絡めてきた。

「……好き」

囁くような声は、泣き声だった。
俺はもう何も考えられなくなった。
巴の少し汗ばんだ肌を少しずつ暴いて重ねていく。
震えているのは彼女だけじゃない。
鼓動の速さが追いつかない。

何もかもが、眩しい。

巴を傷つけているのかもしれない。
だとしたら、その痛みも傷跡も全て俺が引き受ける。俺はもう傷付いたりしないから。
君が後悔してもいい。
この手を離さない。

「……緋村……くん……ッ!」

くぐもった巴の声で途切れがちに名を呼ばれるたびに何かを思い出しそうになった。
雨、その中を走る。
夏の鬱陶しい空。
山の向こうに落ちていく夕焼けとアキアカネ。
そして、降り積もる白い雪。

「……いつか」

体はもう一つになっていた。
狂おしいほど巴に近付く。
荒い呼吸の中で何度か口唇を交わしながら伝えたかったものは、「いつか」という約束だった。

「……いつか、一緒に行こう」

巴が俺を見上げる。
その目が潤んでいるのは、涙だろうか。

「……どこに……ですか……?」

京都、とは言えなかった。
そんな場所よりももっと、二人が行くべき場所、生きる場所があるような気がする。
幸せになれる場所。
今度こそ、巴が笑って生きることができる場所。
それを俺は探したい。
探して、連れて行きたいんだ。
だから、

「待っててくれ。……絶対、君を迎えに行くから」
「…………」
「卒業したらすぐに迎えに行く。君の事も、学校も剣道も中途半端なままにしたくないんだ。だから、それまで……」
「分かりました」

巴ははっきりと頷いた。

「……私は、あなたを待ちます」
「巴……」
「ずっと、待ちます」

その声に安堵して抱きしめれば、巴も俺の背に腕を回した。
細い体だと思った。こうして抱きしめるだけで折れてしまいそうなほど。

「ずっと……」

 

それから巴は一人で帰って行った。
俺もまた一人で家に帰った。
これからの二人を思いながら、巴の残り香を胸に抱いて。

 

 

 

続く