【はつ恋】⑥

その道を選んだのは、偶然だった。
掛け持ちしているサッカー部の試合の帰り。
雨の中を走って帰っていた時、急に鳴った携帯は親父からだった。
「合宿中の巴の様子を見てきてくれ」という頼みを俺は珍しく二つ返事で受けたんだ。
姉ちゃんともう四日も顔を合わせていないから正当な理由で会いに行ける事が嬉しかった。

それに、このへんの学区で一番強い剣道部の、副主将って奴を見てみたかった。
明良兄ちゃんがたまに口にしていたからだ。物凄く強い、って。
名前は確か、緋村。
体は小さいのにスピードがあり技の格が違う。明良兄ちゃんがそう評する男を、その剣道を見てみたい。純粋な興味もあって俺は姉ちゃんがいる高校を目指して歩いていた。
もう夕暮れだ。もしかしたら夕飯、合宿所で食べさせてもらえるかも。そんな期待を持ちながら角を曲がった。そこの公園を横切って少し行けば高校の裏手に出るはず。
そこで俺は、立ち止まった。
何気なく目をやった公園のベンチ。傘が二つ。
もう誰も遊んでいない公園の片隅に人影を見つけた。

姉ちゃんだった。
……どうして、こんなところに。

駆け寄ろうと思わなかったのは姉ちゃんの隣に知らない男がいたからだ。姉ちゃんと同じ高校の体育着を着ているその男は剣道部の誰かなのか。何故そんな親しげに姉ちゃんの隣に座ってるんだ。
苛立ちが募る。
声をかけようか。「姉ちゃん、何してるんだ」って。
とにかく隣の男から離れてよ。何故か無性にイライラする。姉ちゃんの側に俺の知らない男がいるだけで不安でどうしようも無い。
「姉ちゃん……」
思い切って一歩踏み出した時、男が姉ちゃんの頬に手を伸ばした。それを払いのけることもせず姉ちゃんは男の顔を見つめている。

嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!
姉ちゃんから離れろ!

体が震える。
膝がガクガクして動けなくなった。
これから何が起こるのか予期した自分の頭を呪ったが、もう遅い。
目の前に俺の想像通りの光景が広がった。

「姉ちゃん……!」

 

雨が、全てを隠していく。

 

 

 

 

明日の夜には、返事が聞けるだろうか。
僕は部屋の壁を見た。カレンダーを確かめる。剣道部の合宿は明日までだ。
明日、巴は帰宅する。そしておじさんから僕の話を聞くのだろう。驚いて戸惑う事は承知している。でも聡明な彼女の事だ、僕の気持ちを察して答えてくれるだろう。
巴。僕は不安なんだ。
進学したいと君の気持ちを聞いた時、愕然とした。君の胸の中に僕が知らない想いがあるのだと突き付けられた思いだった。
いつか君と結婚するのだと幼い頃から理解していた。
それは君も同じだろう。幼馴染みからそれ以上の関係へ、進展するのに時間はかからなかった。まだ手をつないだだけの関係だけど、それは僕が君を誰よりも大切に思っているからだ。
許されるのなら君に触れたいと何度も思ったけれど、嫌われたくないという思いから僕は慎重になっていた。それがいけなかったのだろうか。
何でも僕だけに打ち明けてくれていると思っていた。
だから君が「進学したい」と言った時、僕がどんなに驚き、そして悲しかったか君には分からないだろう。
僕や僕の両親に反対されるから言わなかったのだろう?
僕の母さんは特に結婚を急いでいたからね。
でも僕は反対しない。
君が歩みたいと願う道なら僕はそれを応援したいと心から思う。
僕も考えた事はあるんだ。勤勉で優秀な君が進学しないのはもったいない事じゃないかと。だから僕は君の進学を積極的に応援するよ。
それが僕たちの未来のためだと思うから。

だから、巴。僕の願いを聞いてほしい。
君の隣を歩くのは僕以外にいないと信じさせてくれないか。
他には何も要らない。
君が……君さえいてくれたら。

巴。
この夏の間に、籍を入れよう。
式は卒業後でいい。
でも僕は、少しでも早く君と結婚したい。

二人がこれ以上、離れないように…………。

 

 RRRRR….. RRRRR….. RRRRR…..

突然鳴った携帯が僕の意識を現実に戻す。カレンダーから机の上に目をやれば着信音が鳴り続けていた。急いで表示を確認する。ディスプレイには「縁」と出ていた。
「もしもし、縁か」
『明良兄ちゃん! どういう事だよ!』
「どういう事って……どうしたんだい、そんなに慌てて」
電話の向こうの縁が息を切らしている。
『姉ちゃんと夏休み中に入籍するって言ったじゃないか! それなのに……どうしてッ!』
「縁、落ち着くんだ。どうかしたのか? 巴に何かあったのか?」
『何かじゃないッ! 姉ちゃんが……姉ちゃんが他の男と……ッ』
「……な……んだって……」
巴が、他の男と……?
『さっき、公園で知らない男と姉ちゃんが一緒にいたんだ! たぶん剣道部の奴だと思う。そいつと姉ちゃんが……キスしてた……』

縁の言葉に頭が真っ白になった。
ありえない。嘘だ。そんなはず、ない。

巴が僕以外の男と二人きりでいるはずがない。
キスなんて……そんな事、巴がするはずが無い。
前に一度、二人きりになった時にそんな雰囲気になっても彼女はやんわりと拒否した事がある。それ以来僕は巴に無理を強いるのをやめた。卒業して結婚式を挙げるまでは、と自分に決めたんだ。
だから……そんな事、巴がするはず無い。
「お前の……見間違いじゃないのか、縁」
『俺が姉ちゃんを見間違えるはず無いだろ! それよりアイツ、誰なんだ……姉ちゃんに……俺の姉ちゃんに……許さないッ』
「……どんな奴だ……?」
『髪が赤くて長い奴。顔はよく見えなかったけど』
「!」

緋村だ。

『明良兄ちゃん? 誰か知ってるのか?』
「……ああ……」
『誰だよ! 俺、絶対許さないからッ!』
「……まさか……そんな事、あるはず無い……」
『でも俺、確かに見たんだ! 高校の手前の公園で二人が……ッ』

もう、何も考えられない。
巴。
君の気持ちが分からない。

でも、今すぐ君に会いたい。
巴、君の声を聞かせてくれ。
僕の名前を、呼んでくれ。

「……巴」

僕は家を飛び出した。
空からは冷たい雨が落ちてくる。
高校へ向かう道を傘も差さずに走った。薄暗い道は何度も巴と並んで歩いた道だ。
思い出を一つ一つ積み重ねてきた。もう十年以上も一緒に育って、誰よりも近くで巴を見てきた。巴の成長を、その変化を側で見守ってきたんだ。
子供から少女へ、そして女性へ。
花のように美しくなる君は僕の夢だった。
いつか君と家族になる日をどんなに待ち望んだ事だろう。
その日が、ついに来る。……そう思っていたのに。

僕が夏休み中に入籍を、と焦ったせいなのか?
それとも、君を剣道部のマネージャーに誘ったせいなのか?

どこで間違えてしまったんだろう。
そう、確かにこの春まで君は何も変わらなかった。いつも物静かで、落ち着いていて、僕の話に黙って頷いてくれて……。
自分の意思なんて見せた事もなかった。
そんな君が進学したいと、結婚を待ってくれと言い出した。
君は、変わってしまった。

「巴……!」

走りながら涙が出てきた。
苦しい。息ができない。目の前が滲んでいく。
心臓の音だけが耳の中で響いて、頭が痺れる。

巴。
行かないでくれ。
僕を置いていかないでくれ。

 

……巴。

 

君の声を思い出そうとした僕の耳に聞こえてきたのはうるさいほど響く雨の音だった。
君の顔を思い出そうとした僕の目に見えたのは、雨で煙る道の向こうからこちらを照らす光だった。

僕の目と耳が捉えたのは巴ではなく、猛スピードで突進してくる車とそのブレーキ音だった。

 

 

 

 

 

 

途中、雨宿りに時間がかかってしまったけれど夕飯の支度をする時間には何とか間に合った。
「あんまり濡れなくてよかったな」
それでも緋村くんも私も着替えが必要なくらいに濡れてしまっている。着替えを持ってきていてよかったなと思いながら合宿所に戻ると、入口の前で斎藤先生がいつもより怖い顔をして立っていた。
「遅かったな」
「見て分かるだろ、この量の荷物。ほら、煙草」
「あの……先生?」
私の前に荷物を持った緋村くんが立とうとする。でも先生は、
「俺の用事は雪代だ。お前は荷物を持ってさっさと行け」
「……買ったもの、冷蔵庫入れてくる」
緋村くんが立ち去ったのを確認した先生がこちらを向いて声を低めた。
「雪代。清里が事故に遭った」
「え……」
いきなりだった。何の前置きも無く。
「さっき、ここに向かう途中の道路で車と接触したそうだ。すぐに救急車で近くの病院に運ばれた。行ってこい」
「は、はい……」
私は慌てて部室に駆け込み荷物を持った。着替えもせず学校を出て携帯電話を出した。着信五件。お父さんと縁からだった。
「もしもし、お父さん!」
『巴か。今どこだい』
「学校出て病院に向かってる! 明良さんは!」
『今、手術中だ』
「すぐに行きます!」
電話を切った。
明良さんが、交通事故。それだけで何も考えられなくなった。
どうして明良さんは学校に来ようとしたんだろう。

「……明良さん……!」

 

 

 

 

病院に着いた時、手術室の前には明良さんのご両親とお父さん、そして縁がそろっていた。
一斉に視線が私に向く。私はおばさまに駆け寄ってその腕に触れた。おばさまはずっと泣いていたのか、頬に涙のあとがいくつも残っている。私を見てまた泣き崩れた。
「ああ巴ちゃん、明良が……明良が……」
「おばさま……!」
私はお父さんと縁の方を見た。お父さんは不安そうな顔をしている。縁は私と目が合った瞬間、逸らして俯いてしまった。
そのまま、誰もが無言で二時間を過ごした。
手術は無事に終わった。明良さんの意識はすぐに戻るだろうという事でまずは安心して体の力が抜けた。でも、
「……右足の神経を損傷しております。お子さんは剣道をされているそうですが、おそらくもう剣道は……」
その言葉に、私の体は床に崩れ落ちた。
「姉ちゃん!」
縁に支えてもらっても立つことができない。
「そんな……明良……明良!」
おばさまの鳴き声が響く。
私はどうしても泣けなかった。
涙が枯れてしまったように出てこない。
ただ胸に何かが詰まったような感覚がいつまでも消えなかった。

 

 

 

 

 

 

巴はその後、学校に戻って来なかった。
彼女が急用で帰宅したと告げられてから合宿の最後は何だか身が入らなかった。家の事情でという事だがそういえば昨日は少し様子がおかしかった。買い物の途中、思い詰めたような顔をする事もあればどこか呆けているように虚ろに揺れる瞳。それでも公園でキスした後はいつもの巴だった。
何があったのか……携帯はずっと電源が入っていないとアナウンスが流れ続けている。メールも何件か送ったけれど返事は来ない。
こんな時、俺は巴の力になれないのか。
せめて側にいるだけでも許してくれないだろうか。
全て受け入れてほしい、受け入れたいとは望まない。でも、こうして同じ時間を生きている今は、できるだけ一緒にいたい。
同じ時を、刻んで生きているのだから。
「……巴」
日曜は二人きりで出かける約束をしている。待ち合わせに巴は来てくれるだろうか。例え来なくても、俺は行く。そして待つ。

家に帰り着いた時、玄関は開いていた。父親が来ているらしい。
「……ただいま」
「おう、戻ったか」
相変わらず人の部屋で好き放題くつろいでいる。その図体のデカさに室温が上がっている気がする。
「今夜、久しぶりに外に飯でも食いに行くか」
「ホント、珍しいな」
「個展で完売だ。たまには豪勢に行こうじゃないか。ついでに斎藤でも誘うか」
「ヤダよ! 呼ぶなら俺は行かないからな」
「冗談だ。さっさと着替えろ」
俺は合宿でたまった服やら何やらを洗濯機に放り込み、部屋で着替えてキッチンに向かった。何か飲もうと冷蔵庫とテーブルに目をやった時、テーブルの上に手紙が置いてあった。
「ああ、さっき速達で届いたぞ」
「誰からだろう」
手紙なんて滅多に届かない。何かの督促状かと裏返すと、差出人に「巴」とだけ書かれていた。
「!」
俺は部屋に戻って急いで封を開けた。巴からの手紙。なぜ合宿の途中で帰ってしまったのか、そして連絡がつかないのか……その答えが書いてあるに違いない。
俺は丁寧に綴られた文字を必死に目で追いかけた。

 

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 緋村くんへ。
突然のお手紙を、お許し下さい。
それに、何も言わず合宿の途中で帰ってしまって、ごめんなさい。
心配をかけてしまったかもしれません。

 あなたに、言わなければならない事があります。
ずっと、言いそびれていました。
ごめんなさい。

 私と清里明良さんは、幼馴染みです。そして、結婚が決まっています。
私が卒業したらすぐに、式を挙げる予定です。

 ですが、明良さんからこの夏の間に籍を入れようと言われました。
二人買い物に出る前に、電話で父から聞かされました。

 私は明良さんに進学したいと言いました。
結婚したら進学なんてできません。だから、どうしても進学したい、結婚を待ってほしいと。
その答えに明良さんが出した条件が、入籍でした。

 私は返事ができませんでした。
それは、あなたの事を好きになってしまったから。
他に好きな人がいるのに結婚なんて、できないと思ったのです。
でもそれを明良さんに話す事ができませんでした。

 そして同じ日、明良さんは事故に遭いました。
もう意識は回復しています。
でも、右足の神経を損傷して歩くのにリハビリと長い時間が必要と言われました。
明良さんはそれを知ってただ、悲しそうに笑っていました。
私は、決めました。明良さんの側にいると。

 緋村くん。ありがとう。
あなたと過ごした時間は、私にとって自由に生きた唯一の時間でした。
でも私は、これからずっと明良さんを支えていくと決めました。

 私のこと、好きだって言ってくれて嬉しかった。
初めて本当に人を好きになりました。
こんな気持ちを教えてくれて、ありがとう。

 本当に本当に、緋村くんのこと、好きでした。
さようなら。

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「おい、剣。どうした、そろそろ行くぞ」
その声に顔を上げた時、頬を熱いものがいくつも伝い落ちた。
「と……も……」
喉が渇いて、声が出なかった。

さようなら。

それだけが頭の中を駆け巡る。
全てがつながり、現実となって目の前に迫る。
巴と清里先輩の関係。そして清里先輩の事故。
巴が選んだ、別れの道。

でも、もう嫌だ。
君と離れるのは、もう……嫌だ。
今度こそ、離さない。離れるわけにはいかない。
……今度こそ。

「剣? どうした……」
「出かけてくるッ!」

俺は走り出した。
巴に会おう。
会って、さよならなんてしないと伝える。
俺たちはもう離れちゃいけない。
もう二度と、君を離さない。

 

 

 

 

続く