【はつ恋】⑤

『もしもし、巴?』
『遅くにごめんなさい。今、話せますか?』
『ああ』
『……今日は、あの』
『清里先輩の事なら気にしてない。引退祝いでもした?』
『……いえ。……あの』
『巴?』
『……何でもありません。来週からの合宿、頑張りましょう』
『合宿が終わったら二人でどこか遊びに行かないか? 今まで補習や部活が忙しくてなかなか誘えなかったから』
『私……と?』
『うん、二人で。どこか行きたいところ、あるか? 隣町に新しくできた水族館とか、映画でもいいし……』
『…………』
『巴?』
『は、はい……聞いてます。びっくりして……』
『そんな驚かせる事言ったかな』
『……嬉しいです。一緒に行けるなら、どこでも』
『じゃあ水族館にしよう。そうだな、合宿が終わって次の日曜に』
『ええ』
『詳しい事は合宿の合間に決めようか。そういえばさ、合宿中にちょうど京都から父親が来るんだよ。期末の結果は何とかセーフだったのに』
『大変そうですね』
『俺のこの狭い部屋に泊まるなんて言い出すしさ、参るよ』
『ふふ』
『なんか、いい事あったみたいだな』
『……どうして、そう思うのですか?』
『だって、君から電話かけてくるし……何だか嬉しそうだし』
『そんな事……』
『まぁいいや。水族館、楽しみだな』
『はい』
『それじゃあ、そろそろ切るよ』
『あ、あの……緋村くん』
『何?』
『……私、あなたのこと……』
『いいよ』
『?』
『巴が今どんな顔してるのか、目に浮かぶから』
『…………』
『俺と同じ気持ちって事で、いいんだよな』
『……はい』
『俺、部活も受験も、巴の事も全部中途半端にならないよう頑張るから……ちゃんと見ててくれ』
『緋村くん……』
『同じ大学、行きたいから』
『…………』
『無理だって思っただろう?』
『いいえ! ……そうだと、いいなって……私も思います』
『そうか。……大丈夫、俺の事、信じてくれていいから』
『……はい』
『それじゃあまた来週、学校で。おやすみ、巴』
『おやすみなさい、緋村くん』

 

 

 

 

 

 

八月。
玄関を開けた時、縁が不思議そうな顔をして出迎えてくれた。
「明良兄ちゃん! どうしたの、いきなり」
「おじさんは、いる?」
「まだ仕事。ついでに姉ちゃんは合宿中だよ」
「知ってるよ。五日間、真夏の特訓。僕も去年まで参加してたからね」
「俺、絶対姉ちゃんと同じ高校に行かない。あんな厳しい練習してる剣道部、珍しいよ」
「顧問の先生が厳しい人だからね。そうか、おじさんはまだ帰ってきてないのか……待たせてもらってもいいかい?」
「ご自由に」
そう言って縁がどうぞ、と背を向ける。リビングのテレビでは夕方のニュースと天気予報が流れていた。明日も雨らしい。
「巴が合宿でいない間、食事の支度はどうしてるんだ? 出前でも取ってるのか?」
「姉ちゃんが色々作って冷凍してくれた。足りなかったらカップラーメンでも構わないし。親父に用事なの?」
「ああ。……大事な話がね」
「ふぅん。急いで帰ってこい、ってメールしておこうか」
「いいよ。引退した僕は家にいてもやる事がないから時間は余ってるし。よかったら縁の宿題でも手伝おうか?」
本当!と縁が自室から問題集を抱えてやって来る。向かい合って座りながら問題の解き方を教えていると、いつの間にか一時間が過ぎていた。ようやく玄関の扉が開く。
「何だ、明良くん、来てたのか」
「こんばんは。おじさんにちょっと相談があって」
「巴の事なら勘弁してくれよ。年頃の娘の事なんてワシにはさっぱり分からんからなぁ」
「はは。夕飯の支度手伝います」
「助かるよ。ほら縁、お前も明良くんを手伝いなさい」
「ちぇっ。親父も姉ちゃんも明良兄ちゃんの言う事は何でも聞くんだから」
そうボヤく縁の言葉が何故か胸に残った。
ふと巴の顔を思い出す。
進学したいと強く自分に告げてきたあの時の巴は、今までの彼女の様子からは想像できないほど強く真っ直ぐだった。
一体何が……誰があんなふうに巴を変えたのだろうか。
どんなに考えても答えは出なかった。

巴は、きっと迷っている。

それは僕が彼女の側にいないせいなんだと思う。
学年も違えば住んでいる場所も違う。今までは部活で顔を合わせていたけど、この夏からはそれも適わない。
二人の間に確かに存在してしまう微妙な距離が巴の心を惑わせているんだ。
大丈夫だと安心させたい。
何の心配もいらない。安心していいのだと。
悩む事は悪い事じゃないけれど、そのせいで周りが見えなくなってしまうのは良くない。だから、僕は決めた。

巴。
僕たちは、僕たちの未来は……光に溢れているんだよ。

「明良くんも食べていってくれ。残り物で悪いが巴の作ったカレーだ」
「ええ、頂きます」
「親父、明良兄ちゃんが大事な話があるって」
「ああ。食べながら聞こう」
「それじゃあ、縁にも聞いてもらうよ」

こんな事、君は信じないかもしれないけれど……僕は物心つく前から君を知っていた気がするんだ。夢で君を見た事もある。古い日本のような場所で、白い着物を着た君が泣いている夢だ。
だから目覚める度に僕が君を泣かせているような気がして辛かった。
現実の、目の前にいる君を泣かせたくない。
僕はそれだけをずっと願い続けてきたんだ。
君は滅多に笑わないから、だから一層君を、君の笑顔を守りたいと思った。

これからも、ずっと……ずっと。

だから巴。僕の側にいてほしい。
僕は頼りない男かもしれないけれど、君を想う気持ちは誰にも負けないつもりだ。
君を幸せにする自信もある。
君を幸せにできるのは、僕だけだ。

「おじさん。お願いが、あるんです」
「明良くんがワシに頼み事なんて珍しいなぁ」
「そうかもしれません。最初で最後のお願いです」
「うん?」

ずっと、一緒にいよう。
君の行く道は、僕が行く道だ。

 

「巴と、今月中に入籍させて下さい」

 

 

 

 

 

合宿は残り一日になった。
弱い雨が続き、蒸し暑い合宿所での生活にようやく慣れてきたところで、せめて最後の夕食くらいは豪華にしようと思ったのは初めて経験する合宿が思った以上に楽しかったから。
朝から晩まで剣道場にこもるのかと思っていたのに、緋村くんと斎藤先生が考えたメニューは面白いアイデアに溢れていた。午前中は体育館で球技をしたり、雨が上がったタイミングでランニングをしたり。校舎の裏手の川で水遊びみたいな事もした。水に入ってはしゃぐ部員に混じって緋村くんもよく笑っていた。その笑顔が眩しかった。
夏の日差しの下で緋村くんは走って、笑って、そして私の名を呼ぶ。
あっという間に四日が過ぎてしまった。明日は部員同士の試合をしてお昼過ぎには解散になる。それが少し寂しかった。これが最初で最後の合宿なのだ。
もっとみんなと……緋村くんと一緒に過ごしたい。
そう思うのに時間は容赦なく過ぎていく。気付けば夕食の準備を始める時間。部員のみんなが剣道場で打ち合っている声が聞こえる。
「巴、買い出し行くよ」
「緋村くん! 練習は?」
「斎藤に頼んで買い出し係りになった。アイツのタバコ買うって条件つきだけど。雨だから一人で荷物持つの大変だろ」
「待って、支度するから……あら」
財布とバッグを手にした時、携帯が鳴った。表示は父からだ。
「お父さん……?」
「何、電話? じゃあ俺、先に生徒玄関で待ってるから」
「はい」
緋村くんが気を利かせてくれた。お父さんから電話なんて珍しい。さては夕食の支度に困っているのだろうか。
「もしもし、お父さん?」
『巴か。合宿中にすまんな』
「大丈夫です。どうかしたの?」
『ああ。帰るのは明日だったな』
「ええ。 何かあったんですか」
『昨夜、明良くんが来てな……』

 

 

 

十分ほど待って現れた巴は先ほどの明るい様子とは変わり、とても落ち着きが無かった。
「巴?」
「お……待たせ、しました」
その声まで震えている。何かあったのか。家族からの電話が原因なのか。聞きたくでもなかなか踏み込めない話題だ。
「どうかしたのか? 顔色が悪い」
「……何でもありません……」
俺には言えない事情なのかもしれない。無理に詮索したくないけれど気になってどうしようもない。
「……俺には、話せない?」
「…………」
「ごめん。困らせたくて聞いてるんじゃない。何か俺でも役に立てるなら……」
「……何でも、ないですから」
行きましょう、と俺の一歩先を歩く巴の背中が何かを訴えているのに俺はその言葉を聞き取る事ができなかった。
せっかく久しぶりに二人きりになれたのに、俺たちは言葉を交わす事ができないまま雨の下を歩き続けた。

 

「これで全部買ったな」
スーパーで買い物を終えるとやはり荷物は多量だった。巴と分担して持ちながら来た道を戻る。
「あ、斎藤のタバコ!」
「私たち未成年だからお店じゃ売ってもらえないのでは……」
「斎藤が馴染みだっていうタバコ屋の場所メモってくれた。確か……えっと、こっちの道の先にある公園の隣。斎藤の名前出せば売ってくれるってさ」
「はい」
俺は重い荷物を抱えながらも巴と過ごす時間が少し増えた事に小さな喜びを感じた。巴もいつもの様子に戻っているようだ。目当てのタバコ屋にはすぐに辿り着いた。斎藤の名前を出して「ピース」を二箱。釣銭で店の前の自販機でジュースを二本買った。
「そこの公園で休んでいこう。ちょうど屋根がある」
「ええ」
巴を連れて公園に入る。休憩できるベンチは幸い乾いていた。
「お釣り、勝手に使ってしまっていいのかしら」
「今更遅い」
「そうですね」
クスクスと笑う巴が何かに気付いて空に目を向ける。
「巴?」
「夏なのに、よく振りますね」
この合宿中、半分は雨だった。
「明日も……雨ですね」
「ああ」
「合宿も、明日までですね……」
「ワリと楽しかっただろ? 川に行ったり、バスケしたり。斎藤が結構好き勝手させてくれるんだ」
「ええ。……私にとって最初で最後の合宿です」
「そうだな。来年の今頃は引退してるし」
「…………」
来年の今頃、俺たちはどうしているんだろう。
受験勉強に追われてまた補習を受けているんだろうか。たまには剣道がしたいなって部活に顔を出したり、帰りに二人で図書館に寄ったり。休みの日には学校以外の場所で会っているのだろうか。
「二学期になったらさ」
「…………」
「もう少し勉強して、テストのたびに補習に出るような事にはならないようにするよ。……難しいかもしれないけど」
「…………」
「……どうせなら二人だけで勉強したいし」
「…………」
顔を赤くして黙る巴に俺は自然と笑みが浮かんだ。
「R大、絶対合格する。……巴と一緒に大学生になるのも悪くないだろ? 剣道も続けるから」
「…………」
「俺、バカみたいだな。先の話ばかりして……」
巴が黙り続けているのは俺の話に呆れているせいだと思った。
だが、違った。
彼女はその目に涙をためている。
「……巴?」
「もっと……もっと、話して、聞かせて下さい」
「え?」
「あなたと、私の……未来の話を」
「巴……」
「……聞かせて……」
どうして泣いているの。
そんな事を聞くよりも、彼女が望むように俺はとりとめもない話を紡ぎ続けた。大学を出たら君は学校の先生になる。前にそんな話をしてくれただろう。俺は剣道で国体を目指しながら企業に就職して一緒に暮らすんだ。いつか剣道がオリンピック競技になるかもしれない。そうしたら俺は日本代表選手になる。そして。
「結婚しよう。……俺、剣道でも食べていけるようになるから」
「…………」
「子供ができたら郊外に家を買おう。俺、都会暮らしが性に合わないみたいなんだ」
「…………」
「そうだな、京都の外れがいい。あそこは自然がたくさん残ってるし」
「…………」
「京都、行った事あるだろ? 中学の修学旅行、このへんの学校はほとんど京都に行くって聞いたから。……いい所だよ、夏と冬は人が住む場所とは思えないほど厳しいけど」
「…………」
「いつか……これは近い未来の話だけど、いつか二人で京都に行こう。案内する。春がいいな。桜が物凄く綺麗な場所、知ってるんだ」
「…………」
巴は黙ったまま俺の話を聞いて頷いている。
その目から涙が一筋こぼれた時、俺はそっと肩に触れた。
「……京都の桜、凄いんだ。川沿いに咲いてさ、水面が花弁で埋まって……空も水も風も、みんな桜になる」

君に見せたい。
いや、君が見たい。
春の桜の下で微笑む君が、見たい。

「巴。俺は先の事より今、俺の隣にいる君の事を考えたい。君が何を考えて何を思ってどうして泣いてるのか……それが知りたいんだ」

全て分かり合いたいなんて傲慢かもしれない。
人間と人間が互いを完全に理解するなんて不可能だと思う。
知らない部分、知ってはいけない事はもちろんあるだろう。
でも、互いに見せたくない面も全部含めて俺は巴を知りたいと思う。
巴に俺を知っていてほしいと思う。
巴だけに、俺の全てを見ていてほしい。

「自分でも不思議なんだ。君の事、ずっと前から知っているような気がする。昔どこかで会ったような気がしてたんだ。口説き文句じゃなくて本当に……俺は、君を知ってる気がする」

最初に君を見た時からずっと感じていた。
胸が痛むような懐かしさ。
深く突き抜けていく愛しさ。
一目惚れなんて軽いものじゃない。
再会。
そう、それだ。

俺たちは、やっと会えたんだ。

「巴。俺を見て」
「……はい」

涙で頬が濡れている。
掌で触れるとひんやり冷たい。
それが今の巴の心の温度なんだと思うと、抱きしめたくなった。

「ほんの少し先の未来を、見せる」
「…………」
「目を、閉じて」
「…………」

来年の春休み、巴を京都に連れて行こう。
俺が生まれ育った町を君に見せたい。

俺たちは、たぶんお互いを探していたんだと思う。
だからこんなにも急速に互いを好きになった。

俺が紡ぐ未来は、全部君のものだ。
小さくても確かに灯る幸せを、捧げるよ。
約束する。
俺は君を、守る。

――――――――――君を、守る。

二度目に触れた巴の口唇はとても甘くて、
雨の音に背中を押されるように、体を強く引き寄せた。

 

 

 

続く