【はつ恋】④

 

家まで送る、という緋村くんの申し出を断わって一人で帰り道を歩き始めた。
家に着いたら絶対に連絡しろと何度も念を押して名残惜しそうに改札の奥へ消えた彼の背中が目に焼きついている。離れていくその姿を追いかけたかった。
何もかも振り切って緋村くんと一緒に行けたら……そんな私の願いを引き止めたのは鳴り出した携帯だった。

『もしもし、巴? 今どこにいるんだ?』
「明良さん……!」
『家に電話したらまだ君が戻らないって聞いたから心配で電話したよ』
「ごめんなさい。駅前のコンビニでノートを買っていたら偶然友達に会って少し話していたんです」

今はもう帰り道だと言えば電話の向こうの明良さんが安心したように笑った。

『そうか……よかった。もしかして君が怒ってるんじゃないかと思ってたんだ。母さんが強引に結納の日取りを決めてしまったから』
「……いえ」
『君が卒業するまで慌てるつもりは無いから、安心してほしい』
「……はい」

卒業したら、私は明良さんと結婚する。……しなければならない。
決められているこの未来に、私は背を向けたくてたまらなくなっていた。

『それじゃあ、来週からの試験、頑張ろうな』
「ええ。おやすみなさい」
静かに電話を切った。そのままメールの画面を開く。
まだ家に着いていないけれど緋村くんにメールを打つ。

「あなたに、会いたい。」

けれど、送信できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

期末試験が終わり、俺は何となく晴れない気分のまま剣道場へ向かった。
今日はこれから三年生の引退と引き継ぎ、夏休みの合宿の説明。やる事が多すぎて頭が追いつかない。
しかも何となく頭痛がする。
それに、あの夜以来巴と会っていない。だから今日の部活が久しぶりの再会になる。
巴は俺を見てどんな顔をするだろう。怒っていなければいいけど……。

剣道場に着くと巴の姿が目に入った。声をかけようとした俺から逃げるように彼女が部室の方へ行ってしまう。
やっぱり怒ってるのだろうか。人前でキスしてしまった事……でも軽はずみな気持ちでしたんじゃない。本気だ。
「巴……」
部活が終わったら彼女と話をしよう。

 

 

 

 

 

 

「巴」
部活の後、片付けを終えて帰り支度をした私を呼んだのは明良さんの声だった。振り向けば今日で引退した主将へ贈られた花束を持っている。
「一緒に帰らないか?」
「……はい」
三年生は今日で引退。そして来週から始まる夏休みには一、二年生だけの合宿がある。人数が半減してしまった剣道部をこれから実質的に率いていくのは副主将の緋村くん。
ふと彼の姿を探すと剣道場の入口で斎藤先生と話していた。少し難しそうな顔をしているのが気になる。
「僕は一度教室に戻るから、生徒玄関の前で待っててくれないかな」
「分かりました」
本当は緋村くんと話したかったけれど明良さんの誘いを断わることができなかった。
それに、いいタイミングかもしれない。

明良さんに話したい事がある。

 

 

 

 

 

 

「期末の結果は、ギリギリってところだな」
斎藤の言葉に俺は冷や汗をかいた。父親から聞いて知っているのだ、俺が期末で平均点を落としたら部活を辞める事を。
「二学期からはお前が実質の主将だ。辞める事にならんよう精々勉強に身を入れるんだな」
「分かってる」
「それに、剣道部の合宿に合わせて京都から来ると聞いたが」
「な……俺、聞いてない!」
「久しぶりにお前の腕前を試すとも言っていたが?」
その不適な笑みを睨み返しながら俺は荷物を手に巴を探した。だが彼女の姿はもう剣道場に見当たらない。追いつこうと慌てて生徒玄関に向かえば、そこに巴が立っていた。
「緋村くん……」
「巴!」
巴が俯く。
「この間の事……ちゃんと謝ろうと思って。いきなりあんな真似して悪かった」
「……はい」
怒っていないのか、巴が顔を上げて微笑む。
「……あれから連絡くれないから怒ってるのかと思ってた」
「そんな……」
少し困ったような顔に俺は慌てて手を振った。
「いいんだ。……俺が悪かったんだから」
「……そんな事、ありません」
「え……」
嬉しかったから。消えそうな声で彼女が囁く。
「……巴」

「巴!」
後ろから声が聞こえた。それが清里先輩の声だとすぐに気付いた巴が俺の横を通り過ぎて彼の方へ歩き出す。
「待たせてすまない。行こうか」
「はい」
「緋村。剣道部、たのむな」
二人が校門を出て歩き去る。俺はその様子を二度も見送るはめになった。巴は確かに「嬉しかった」と言ってくれたのに、清里先輩が現れた途端に俺が見えなくなったように行ってしまった。
清里先輩と一緒にいる巴は、知らない人に見える。
物静かで無口な、どこか影のある眼差し。
その理由を知りたい。

「……巴」

君は今、何を考えているんだろう。

 

 

 

 

駅を過ぎて私の家が見えてくると急に明良さんが立ち止まった。
手に持った花束から漂う甘い香り。その向こうの明良さんの顔は珍しく曇っていた。
「……明良さん?」
「さっき、緋村と何を話していたんだ?」
「え……」
瞬間、ドキンと心臓が鳴ったのを感じた。明良さんの目はいつになく真剣で、少し怖い。
「君が緋村とよく一緒にいるのを見かけるって、剣道部の子に言われたんだ」
「それは……ずっと一緒に補習に出てたから……」
明良さんは何か気付いているのかもしれない。
私の心の行き先を見抜いてしまったのかもしれない。それでも構わない。今日こそちゃんと話すのだと決めたのだから。
「話しがあるって……緋村の事か?」
「…………」
「緋村はいいヤツだ。気難しい所もあるけど根は真面目で優しい。剣道への意欲も誰よりも持っている。僕たちが引退しても部員を率いて秋の大会は絶対に勝ち進んでくれると思う」
「明良さん……」
「だから、巴。……もう剣道部のマネージャーを辞めてもいいんだよ」
「!」
意外な言葉に、私は何も言い返せなかった。
……剣道部を、辞める?
「突然マネージャーを頼んでしまって、君には随分無理をさせたんじゃないかと思ってるんだ」「……そんな事ありません」
「今年入った一年生の友人にマネージャー希望の生徒がいると聞いている。これからはその子に任せて君は好きな事をするといい。母さんが開いてる料理教室に行きたいって前に言ってただろう? 僕も君も受験は関係ないからこれからは二人でもっと色んな事を……」
「辞めません」
思わずはっきり告げていた。
明良さんが驚いたように私を見る。
こんなふうに彼に向かって強く意思表示をしたのは初めてかもしれない。
「巴……?」
「私、剣道部……辞めません」
「いいんだ、もう無理しなくて。責任感が強い君の事だ、秋の大会前に辞めてしまう事を心苦しく思うかもしれないがそれは……」
「違うの。……違うんです」
以前の私なら、きっと辞めろと言われれば素直に従っていた。
二人で出かけようと言われれば黙ってついて行った。
でも、今の私は違う。
私は、知ってしまった。
新しい未来。別の道。その可能性。
隣を歩きたい人。

―――――――――― 緋村くんとの、恋。

「マネージャーは辞めません。最後までやります」
「巴、」
「それから……まだお父さんにも相談してないのですけど……私、進学したいんです。大学で勉強したい事があるんです」
「え……」
明良さんの顔色が変わる。でも、もう言わずにはいられない。
「……結婚、待ってもらえませんか……」
「何を言ってるんだ、結納の日取りが決まったばかりなのに……」
「結納は来年で構いません。でも……結婚は、私が大学を卒業するまで待ってほしいんです」
大学四年間という時間を与えられたら、私は更に別の道を望むかもしれない。その可能性も含めて、待ってほしい。
「巴……どうしたんだ、いきなり。今まで進学したいなんて、そんな事一言も言った事無かったじゃないか」
「……明良さんもお父さんも結婚を急ぐから言い出せなかったんです。でも、本当に……大学に行きたいんです」
「……それだけなのか……?」
明良さんが私から視線を逸らした。
「進学したい。……理由は、それだけなのか?」
「え、ええ」
「本当に?」
進学したい。
R大学に、緋村くんと一緒に進学したい。
だから嘘じゃないけれど、真実はもっと残酷だ。それを明良さんには伝えるつもりは無い。
「……巴。僕が君と何年一緒にいると思ってるんだ。君の考えている事はよく分かってるよ」
その声はとても柔らかく私に届いた。明良さんは笑っていた。
「また連絡する。今日はこれで帰るよ」
「明良さん……?」
「お父さんと縁によろしく。じゃ」
そのまま明良さんは駅へ引き返してしまった。
でも、言うべき事は伝えられた。明良さんと、明良さんのご両親からの返答を待たなければならない。多分進学を許してもらえないだろう。そんな事は最初から分かっていた。でも、私はこの願いを持っているのだと、その事実を伝えておきたかった。

私の行く道は、もう決められている。
そこから別の道へ続く岐路に立っている。選べるか分からない。選べないかもしれない。
それでも……夢を見るくらいは、許されたい。

「緋村くん……私、ちゃんと、言えた」

でも、まだあなたには言えていない。
私の事、私の気持ち。あなたにはまだ何一つ告げていないから。
この夏に、あなたにちゃんと伝える。
あなたと過ごす、初めての夏だから。

 

この恋に、身を捧げると決めたのです。

 

 

 

続く