【はつ恋】③

七月。
期末試験の一週間前から部活は休みになった。おかげで毎日遅くまで補習が続いている。
試験への準備はかなり自信がある。全教科平均点は何とかクリアーできそうだ。
いや、クリアーしなければならない。こんな中途半端な時期に剣道を辞めるなんてできない。
そして今日は金曜日。来週から試験だ。試験前最後の補習が巴のいる英語なんてラッキーだ。今日は久しぶりに一緒に帰れるだろう。早く終わってくれと念じているうちに時計が五時を指してチャイムが鳴る。これから図書室で自習を続けてもいい。巴ならそうするだろうし。
だが巴は意外にもカバンを持って挨拶もそこそこに急いだ様子で生徒玄関へ足を向ける。俺は慌てて追いかけた。
「巴!」
一緒に帰ろう。そう言い掛けて俺は立ち止まった。急ブレーキ。まさにそんな感じで。
生徒玄関に巴と清里先輩の姿を見つけたからだ。二人はこちらに背中を向けている。
「お待たせしてごめんなさい」
「いや、僕こそ急に呼び出してすまなかった。母さんがどうしても連れて来いってうるさいから。試験前なのに」
「いいえ」
そんな会話が聞こえてくる。幼馴染みの二人の間には割って入れない厚い壁がある。俺に話してくれる声とは全く違う巴の声。それが彼女の本当の声なのだろうか。
幼馴染みだけが知っている、本当の……。
「後で縁とおじさんも呼ぶ事になってるみたいだ。どこか食事に行こうって。試験前だからって断ったんだけど」
「楽しみです」
二人の姿が生徒玄関から消えても俺はそこに立ったまま。見せ付けられた二人の姿に言葉も溜息も出てこなかった。
巴は清里先輩が好きなのだろうか。だから俺にいつまでも返事をくれないのだろうか。
少なくとも先輩は巴を好きなはずだ。ならばあの二人の間に俺の出る幕なんて……。
「巴……」

知ったのは、彼女の心の向かう先。
そしてこの痛みの名前。

……確かに、恋だった。

 

 

 

 

 

緋村くん。
後ろからあなたが追いかけてきている事も、そこで立ち尽くしている事にも気付いていました。
でも、振り返られなかった。
ごめんなさい。緋村くん……ごめんなさい。
明良さんには見られたくなかったの。あなたと話す私を。きっと明良さんの知らない顔をしているはずだから。
あなたにだけ見せる顔、あなただけが知ってる私を守りたかった。
だから気付かないふりをしたの。
あなたが私たちを見て何を思いどう感じたか、何となく分かります。でもそれは誤解。……いえ、誤解じゃないけれど、真実じゃない。けれどあなたに伝えられない。
もう、どうしていいのか分からない。
あなたに全て話す勇気が無い。
緋村くん。私は、私はあなたが……。

「巴?」

いけない。そう思った時にはもう遅かった。
明良さんだけじゃなく、明良さんのご両親に縁、そして父さんまでもが私を見ていた。
「どうした? 気分でも悪い?」
隣の明良さんの心配そうな顔に私は作った笑みを返した。
「いえ……来週の試験の事が気になって」
「そう。父さんも母さんも、だから今日食事なんてやめようって言ったじゃないか。僕も巴も、縁だって月曜から期末試験なのに」
「でも、せっかく結納の日取りが正式に決まったのだもの」
「おばさま、私なら大丈夫ですから」
そう言って目の前に運ばれてきたデザートに目を向けた。果物とアイスが白い皿に盛ってある。スプーンで口に運んでも味を感じなかった。
「巴ちゃんなら成績に心配はないだろう。なぁ」
おじさまの声に明良さんが勿論と頷く。縁も自慢げに笑っている。
両家で何度か訪れた高級レストラン。その窓際の席から見下ろす街は曇った空に覆われてよく見えない。でも、確かにこの空の下に緋村くんはいる。今頃一人で食事をしているのだろうか……考え始めるともう思考は止まらなかった。
ちょっとお手洗いに、と断わってバッグを手に席を立てば鼓動が早くなっていく。
トイレに駆け込んで鏡を見れば、そこにはもう明良さんの婚約者の顔は映っていない。バッグから携帯電話を取り出して緋村くんのデータを探す。さすがに電話はできないがメールなら送る事ができるだろう。

『さっきはごめんなさい。家庭の事情で先に帰りました。来週から試験、頑張りましょう。』

簡単に作成して送信した。返事を待つ時間の余裕は無い。また携帯をバッグに放り込んでテーブルに向かう。少し離れた場所から見れば皆が楽しそうに笑っている。
幸福の図。そこに自分も加わるのだと少し前まで疑う事は無かった。
幼い頃に決められた明良さんとの未来。それに疑問を感じる事なんて無かった。
高校を卒業したら結婚する。明良さんは清里家が経営する会社に就職し、私はその妻となる。
この運命だけが唯一だと、思っていたのに。
今、私の中には違う道が確かに示されている。
選ぶ事は難しい道。だけど、私はその道を選びたい。
……これは、裏切り。
その道の先で待っていてくれるのは明良さんじゃなく、緋村くん。

これは……確かに、恋。

でも、伝えられない。
伝えてはいけない。
傷つけたくない。裏切りたくない。嫌われたくない。
……離れたくない。

 

「巴、どうしたんだ」
お父さん。私を呼ぶお父さん。優しくて、あたたかな私の家族。
「お待たせしました」
お父さん、ごめんなさい。母がいない私を育ててくれて、そして明良さんのような立派な人と結婚する日を夢見てくれていたのに。
「じゃあ、遅くなる前に帰ろうか。明良も試験勉強があるでしょう」
「そうだね。じゃあ雪代さん、また」
「ええ、宜しくお願いします」
結納は来年の正月。それから一年、私の卒業を待って結婚。入籍。
私の運命が決まったこの夜、もう一つの運命もまた動き出した。
それを教えてくれたのは、バッグの中で小さく光る私の携帯だった。

 

 

 

何回かかけてやっと巴と繋がった。

『もしもし、緋村くん!』
「巴! メール読んだよ、今どこ」
『もうすぐ家に着くところ。コンビニでノート買うって言って家族と離れて電話してるの』
「そうか。……コンビニってあの駅前の?」
『ええ』
「すぐ行くから、そこで待っててくれ!」
咄嗟にそう言って、ジーンズのポケットに財布をねじ込んで部屋の鍵を握り締めた。走れば駅まで三分。電車に乗って十分。
『だめよ、すぐ帰らないと……』
「十五分で行くから!」
それ以上巴の声を聞いていたら彼女を家に帰してしまいそうで電話を切った。そのまま玄関から飛び出す。夜九時。まだ電車の本数は多い。大丈夫、十五分で着く。

 

どうしよう。ここで、待っていようか。
コンビニの前で立ち尽くしたまま改札を見た。あの人の流れを押し分けて緋村くんが会いに来てくれる。嬉しいけれど、怖い。お父さんと縁には「すぐ帰る」と言ってある。電話で少し話すだけのつもりだった。それなのに今から十五分も待つなんて……。
あまり遅くなれば縁が迎えに来るかもしれない。
緋村くんと会っているところを見られたら困った事になる。だから今すぐ家に帰らなければと思うのに……足は動かない。視線は改札に向いたまま。
彼が来てくれるのをこんなにも切なく待っている。

 

電車がホームに滑り込む。
ドアが開くのを待って飛び出した。階段を駆け下りて改札へ。人の波の向こうに巴の姿を見つけた時、前にもこうして巴のもとへ駆けた事があったような気がした。
「緋村くん……!」
改札を抜けると巴が駆け寄ってくる。
「ごめん、遅くなった」
「……もう帰らないと」
「少しだけ。……会いたかったんだ」
素直に言葉が出てきて自分でも驚いた。でも嘘じゃない。会いたかった。生徒玄関で君と清里先輩が並んで歩く姿を見送った時から胸の痛みが消えない。苛立たしさが募って何も手につかなかった。試験さえどうでもいいと思える程、頭の中は巴でいっぱいだった。
「会いたかった……」
「緋村くん……」
巴の頬が赤く染まる。それだけで満たされる。
気持ちを、想いを全て受け止めてほしいとは思わない。
ただ、そこにいて俺の前で笑ってくれたら。
いつものあの、静かな目で。
「私も……会いたかった」
通りを行き交う車のライトが途切れる事なく二人を照らして巴の顔がよく見える。その顔に確かな微笑みが浮かんでいる。
俺に向けられた、俺だけのもの。誰にも見せたくない。誰にも向けないでほしい。
それがたとえ、幼馴染みでも。

「……巴」

彼女の腕を引いた。こんな人通りの多い場所、誰かに見られるかもしれない場所で、気付けば抱きしめていた。
「緋村く……」
「ごめん。先に、謝っておく」
巴の抗議を封じるように背中を強く引き寄せた。
人が多いから逆に目立たない。巴の体の震えが止まったのを確認して少し体を離した。
その目に少しの驚きと、俺が映っている。

「……ごめん」

謝りながら指で頬に触れてみる。ひんやりと冷たい。
……まただ。
こうして君に触れていると、泣きたくなる。

「あ、の……」

まるで雪みたいだ。
そう言ったら巴はどんな顔をするだろうか。
そんな事を考えながら、俺は巴の口唇にそっとキスをした。

 

「最後」の夏が、速度を上げて走り始めた。

 

 

 

 

続く