【はつ恋】②

 「どうしたの、姉ちゃん?」

玄関のドアを開けるなりその場で立ち尽くしたまま呆けている姉を見つけて縁がリビングから声をかけた。おかえり、と言っても返事が無い姉。その姉が自室に行く事もせず呆然としている。どこか体の具合でも悪いのかと心配した縁の目には頬を赤く染めている姉の顔が見えた。
「姉ちゃん、熱あるの!」
「ち、違うわ……何でも、ないの」
姉が慌てた様子で部屋に駆け込むのをどこか不思議そうに見送った縁はキッチンのテーブルに置いたメモを思い出してドアの外から中にいる姉に声をかけた。
「明良兄ちゃんのおばさんから電話があったよ。来週の日曜、親父と一緒に家に来てくれって」
「来週?」
「そろそろ結納の日取りを決めましょう、ってさ」
不機嫌を隠さない弟の無邪気な幼さに少し前の巴なら苦笑できた。だが今はそれができなかった。先程の緋村の言葉が巴の胸に深く突き刺さっている。
「結納……」
「姉ちゃん、明良兄ちゃんが卒業したらすぐ結納するんだろ」
「そう……ね……」
縁はカレンダーを見やってふてくされた。
「何もそんな急がなくたっていいのにさ……」
仕方ないでしょう、うちには母さんがいないのだもの。早く私と明良さんが結婚して、お父さんとあなたを安心させたいの。縁は何度も姉から聞かされた言葉を思い出していたが、今日の巴はその言葉を口にしなかった。
「あー腹減ったよ。姉ちゃん。今夜の夕飯は何?」
縁の声に着替え終えた巴が部屋から出てくる。まっすぐキッチンに向かいながら、己に突きつけられた現実とあらかじめ用意されていた未来をそっと胸に忍ばせた。

「……緋村くん……」

 

 

 

「た、だいま……」

帰宅すればやはり玄関が開いていて男の靴があった。
ワンルームの狭い部屋、玄関から丸見えの部屋には予想通り「父親」がいた。
「遅かったじゃねぇか」
「……ちょっと」
「どうせ試験の結果が悪くて帰る気になれなかったんだろ。お前の結果は斎藤からとっくに聞いてるぜ。さっさと答案用紙を出せ」
やっぱり、と思ったがもう逃げられない。素直に差し出せば父親は無言でそれを見た。赤い点数にその眉がぴくりと跳ねる。
「平均超えたのが、現文だけか」
「う……」
「お前、全然勉強してないな。斎藤の言ったとおりだぜ」
「部活が忙しいんだ! 副主将になって……」
「仕事が増えたのは主将だけ、お前のポジションは去年と変わらないって聞いてるがな」
「それは……」
斎藤め、一体どこまで喋りやがった。
「おい剣。お前、俺との約束を忘れたわけじゃないよな」
厳しい声に思わず黙る。忘れるはずが無い。
「入学前に交わした約束。この試験結果じゃあどう足掻いても果たせそうにねぇ。違うか?」
「ま、まだ二年だ! 時間はある!」
「確かに。だがこの調子で剣道ばかり続けていたら落第留年は決定だろう。約束したよな、剣。R大学を剣道推薦ではなく一般入試で現役合格し、きっちり四年で卒業すると。それができないなら俺のところに戻って陶芸の修行をすると!」
「忘れてない! ……俺は京都には戻らない。陶芸家にもならない。絶対大学に進学してみせる」
「こんな成績じゃC判定だってもらえないぜ」
「次は……期末は全教科で平均点以上取るさ!」
「言ったな?」
父親がニヤリと笑う。俺は思わず唇を噛んだ。この育ての親に昔から口でも剣の腕でも勝った試しが無い。
「期末は全教科平均点以上。これが条件だ」
「条件?」
「もし全教科平均点を取れなかったら、剣道部を辞めろ」
「なっ! 何でだ!」
「当たり前だろう。剣道ばかりで勉強しないお前が悪い。さっさと剣道を辞めて勉強するんだな。見事R大学に合格すれば再開していい」
「横暴だ! そんな条件飲めるか!」
「じゃあ今すぐ高校を退学して京都に、俺のところに戻るか? 京都にだって剣道が強い高校はある。だがどうしても東京に出たいと言って飛び出したのはお前だ。俺と同居してると偽って一人暮らしまでして……誰がお前の学費と生活費を面倒みていると思ってる」
「それは……」
「去年一年は大目に見た。この成績でもとりあえずな。だが、これからはそうもいかない。約束が果たせないのなら俺はお前を京都に連れ戻すからな」
「……分かった。期末で平均取れば文句無いだろ! やってやるさ……そのくらい」
「いい目だ。せいぜい頑張る事だ」
そう言い終えて父親は答案用紙を返すと「もう用は無い」と言って立ち上がり玄関に向かった。月に一度程度、東京での個展に合わせて上京し俺の様子を見に来る男は陶芸家でもあり俺の育ての親。
「まぁ、それにしてもお前、相変わらずだな」
「何が!」
「ふん。元気そうで安心したぜ。それに、女を連れ込んでる様子も無いしな」
「あ、当たり前だ! さっさと帰れ!」
俺が怒ったってこいつは子犬が吠えてるくらいにしか感じないんだ。
「それじゃあ、また来月来るからな」
俺の頭をぽんと叩いた手が封筒を落とした。それはこれから一ヶ月の俺の生活費。
「……ありがとうございます」
「左に重心が傾くクセ、直ったようだな」
はっと顔を上げた。玄関のドアが閉まった。
「打ち合ってもいないのに……」
部屋に戻り、封筒を机の引き出しにしまいながら壁を見上げた。
まだ小学生にもなっていない俺の横で青年が竹刀を手に笑っている写真。孤児院の子供たちを社会人たちが作る剣道サークルが試合に招待してくれた日の写真だ。
この数日後に俺は剣道サークルに属していた一人の青年に引き取られ、その手ほどきを受けた。その青年こそが剣道界でその名を知らぬ者はいないとまで謳われた伝説の男であり、第一線を退いた後は後進の指導をする事も無く剣道から離れ陶芸家として悠々自適な生活を送る養父である。

「まだ全然届かないな……比古清十郎には」

 

 

 

 

 

六月。
放課後は補習に出るのが当たり前になって半月が過ぎた。
英語の補習の時は参加する生徒が他の教科より多いのは、俺のように成績が悪い生徒に混じって別の狙いがある生徒が含まれているからだ。
それが面白くなくて補習になかなか集中できない。そんな俺の横を巴は素知らぬ顔で通り過ぎ、手を挙げる生徒の机へ行ってしまう。
「雪代さん、ここ教えて」
「巴ちゃん、俺にも!」
そんな声が聞こえるたびにイライラして仕方ない。だが時折巴が俺の方を見て小さく笑む。そのおかげで何とか竹刀を持ち出さずにすんでいるのだけど。

何とか課題を終えた頃、チャイムが鳴った。俺は大急ぎで教科書とノートをカバンに突っ込むと教室の後ろに置いた剣道の荷物を背負った。
「巴、行くぞ」
「はい」
これから部活だ。英語の補習の後は巴を連れて剣道場に向かうのが当たり前になった。そんな俺たちを他の生徒が面白半分に冷やかす。お前たち、いつから付き合ってるんだ、と。
その問いに答えられるものなら答えたい。
だが巴はあの日、初めて一緒に帰った日の別れ際に俺が告げた言葉に返事をくれなかった。俺も求めなかった。だから何も進まないままこうして毎日を過ごしている。
何か変わればいいと思いながら、何もできないまま。

いや、確かに変わった事がある。
部活以外に校内で巴に会った時は立ち止まって話すようになった。
部活が無い日に生徒玄関で出くわせば駅まで一緒に帰る日もある。それ以上の事は無いが、確かに以前の関係から少し先に進んだ。もちろん俺は、更に進みたいと思っている。
けれど、肝心の巴の気持ちが分からない。
俺の告白に明確な返事は返してくれなかったけれど、それまでと変わらずに……いや、それまでより確かに柔らかく俺に接してくれている。
けれど、もう一歩踏み込んだ俺の手を避けるようにいつもあと少しのところで身を引いていく。それ以上彼女の心に近付けば二度とこちらを向いてくれないような気がして怖くなった。
だから何も言えない。
「ま、って……」
息を切らして後ろを走る君。
俺は少し歩調を緩めた。この長い廊下を抜ければ剣道場はもう目の前だから、どうかそこまで誰も俺たちを見ないで。そんな事を心の片隅で願いながら。

「……巴」

俺は右手で君の手を握る。
何度も。

 

 

 

 

胸が苦しくて、張り裂けそう。
いっそ、全て弾けてしまえばいいとさえ思う。
私の中にある想いを全て解き放ってしまえたらどんなに楽になれるだろう。
もう、手に負えないところまで大きくなっている。

あなたは、ズルイ。

私の気持ちなんてお構いなしに正面からぶつかってくる。逃げる間さえ与えてくれない。
時に強引に、でもいつも優しいから何も言えない。
言わなければいけない事まで、飲み込んでしまう。
私はもうこんなにあなたを知ってるのに、あなたは私の事なんて何も知らない。
知らないからこそ私の側にいてくれるのかもしれない。
知ってしまったら、私から離れてしまうのでしょう?
黙ったままあなたの側にいる私こそがズルイのだと分かっている。
それが別の人を苦しめてしまうかもしれない事にも気付いている。
それでも……それでも、あなたの側にいたい。

どうして。
どうしてこんなにあなたに惹かれるの?

赤く長い髪。孤独を含んだ瞳。竹刀を振る腕。
私の指に絡まる指。
何もかも知らないのに、
何もかも知っている気がする。

名前を呼ばれるたびに、体の奥が震える。
泣きたくなる。
こんな想いは初めてで、どうしていいのか分からなくて。
でも、あなたの手だけは信じる事ができる。
だからもう少し、このままで。

あなたの手を、離したくない。

 

 

 

 

続く