【はつ恋】①

2010年8月発行の個人誌/現代版・剣心×巴です。
二人は同じ高校に通う同級生の設定、一つ上の先輩に清里さん。
結末はシリアス、転生恋物語です。
清里ファン・清巴派の方にはつらい描写があるのでご注意下さい。
本編後半の方には一部大人向けの表現が出てきます。

 

「その愛に、身を投げ出す覚悟はあるか?」

 

 

 

四月。
始業式を終えて教室に戻る途中クラスメイトの列から抜け出したのは特に理由があったからじゃない。
満開に咲いた桜、その枝先から零れ落ちる花びらがまるで雪みたいだと思った時にはもう足は廊下から中庭へ向いていた。風が吹けば惜しげもなく落とされるその桃色の波の下に立った時、「春がきた」と強く思った。自分でも不思議に思うほど、春なんて幾度も幾度も過ぎたはずなのに何故かこの春は去年とは違う色をしている。
何故だろう。胸が痛い。

桜を見上げた後、俺は教室に戻った。
クラス替えの無いこの高校、去年と同じ顔ぶれが揃う教室。進級が危ぶまれたが何とか二年生になった。今年から本格的に大学受験の準備が始まる。進学を考えると頭が痛くなるのはきっと父親のせいだ。
「緋村、早く座れよ」
教室に入れば一年の時からの付き合いがある生徒が声をかけてくる。頷いて席に着けばすぐに担任が現れてホームルームが始まった。これからの予定、試験、進学。当たり前の話題とプリントが配られ明日から通常授業だという言葉で締めくくられた。
起立、礼。

「よっしゃ、剣、帰ろうぜ」
隣の席に座っていた左之助に肩を叩かれたが俺は首を横に振った。まさか、という顔の左之助にその通りと頷いてみせる。
「剣、お前……新学期初日から部活かよ」
「今日から副主将だから」
「そうだったな。夏に三年生が引退したら実質の主将だしな。ま、頑張ってくれ。俺は帰るし」
「ああ」
教室の外、廊下に並ぶロッカーから荷物を取り出す。防具に竹刀。かなりの大荷物だが全て手にも体にも馴染んでいる。そしてこの大きな荷物を背負う俺の姿もこのクラスには馴染んでいるのだろう。
「緋村くん、剣道部頑張ってね」
「緋村、次の大会も出るんだろ? 今からしっかり練習しとけよ」
そんなクラスメイトの声に適当に返しながら俺は教室から剣道場へと歩き出した。今日から新体制、新たな主将と副主将の下で動き出す。新入部員が入るのは来週以降だろう。

「緋村! 緋村剣! 春休みの間に髪を切ってこいと言っただろうが」
剣道場へ向かう途中、生徒指導で去年も散々な目にあわされた教師とすれ違った。が、竹刀を見せておけば切り抜けられる。
「この髪は地毛です。今から部活で急いでるんですが」
「まったくお前は……大体剣道部の顧問がしっかりしないから」
「それは斎藤先生に直接言って下さい。じゃ」
愚痴と説教に付き合ってる暇は無い。早く竹刀を握りたくて体が痺れている。防具を身につけ道場で竹刀を握りたい。あの独特の雰囲気だからこそ、感覚が研ぎ澄まされる。
(……ああ、手が飢えてる)
思い出しただけで背中がゾクリとあわ立つ。
恐怖のような快感のような、不思議な感覚。竹刀を握ると途端に世界が閉じていく。自分の周りから気配が消える。幼い頃に始めた剣道が今は俺の唯一になった。

やがて剣道場に着く。ホームルーム直後で誰もいないかと思ったが中から話し声が聞こえてきた。覗いてみると珍しい事に顧問と主将、マネージャーが揃っていた。そしてもう一人、見知らぬ女生徒の後ろ姿が見える。
「あの、」
声を掛けた時、中の全員がこちらを振り向いた。
「何だ、緋村。もう来たのか」
顧問の斎藤の素っ気無く冷たい声。
「ああ丁度良かった、今から緋村を呼びに行こうと思っていたんだ」
今日から主将になった、三年生の朗らかな笑み。
「あらぁ、ホント。早いわね」
マネージャーの、男のくせに女のような声。
そして。

真っ白い雪のような人。

「……あ」
「あ……」

振り向いた顔に見覚えは無かった。
驚くほど色が白く、それを縁取るような黒髪が強い印象を与えている。そう、確かに見覚えは無い。
それなのに、何故かとても……とても。

「紹介するよ。彼女は雪代巴さん」
主将の清里さんがそう言って彼女を俺の前に連れてきた。その顔に強く視線が奪われた。それなのに声をかけてはいけないような、どこか拒まれているような気がした。
「実はね、剣ちゃん。アタシ、来月からアメリカ留学が決まったのよ。それで剣道部のマネージャー、続けられなくなっちゃって」
「え!」
俺はマネージャーである鎌足さんの顔を見た。確かに男子生徒なのだがいつも女子生徒の制服を着ている不思議な人だ。
「夏の引退後の留学のはずだったんだけど予定が変わってね。で、新しくマネージャーを探してきたのがこの子! 巴ちゃん。あなたと同じ二年生よ」
そう言って鎌足さんが顔を向けたのが彼女。雪代巴という名にも聞き覚えは無い。彼女は無言で俯いていた。
「今月中に仕事は全部覚えてもらうから、剣ちゃんたち二年生は安心してちょうだい」
「でも、いきなり剣道部のマネージャーなんて」
言いかけた俺を制したのは顧問の斎藤。
「案ずるな。そいつは剣道の知識は俺たち並みに持っている」
意外な言葉に思わず俺は彼女を見た。彼女は僅かに顔を上げて頷いたように見える。その横に清里さんが守るように寄り添っていた。
見なければよかったと、思った。
二人がただの知り合い以上の関係なのだと聞かなくても分かる。恋人。そう呼べばいいのか。
「今日から巴ちゃんには部活に入ってもらうわ。正式な通達はみんなが揃ってからで。それじゃ」
鎌足さんが彼女を連れて剣道場の奥の部室へ行くと斎藤も腕時計を見て「これから会議がある」と剣道場を出て行った。後に残された俺と清里さんの間にはいつも微妙な空気が流れる。その理由に心当たりはあるが、あえて気にしないようにしている。……俺は何もしていない。

「緋村。どう、思う」
靴を脱いで荷物を置いたところでいきなり話しかけられた。
「どう、って何がです」
「巴だよ。夏で僕たち三年は引退だ。その後は君が実質剣道部を率いる事になる。巴とうまくやってほしい」
「それは、まだ……何とも」
曖昧に答えたのは自信が無かったからじゃない。そんな事は余計なお世話だという思いと、清里さんの本音が聞きたかったからだ。
「彼女は口数が少ない。でもとても優しく素直な人だ。それに剣道にも詳しいからマネージャーの仕事はすぐに覚えてくれると思う」
「そう、ですか」
興味のない素振りを見せて、その本音を探ろうとしている。そんな自分に多少の嫌悪を感じつつ俺は一つ年上の男の顔を見た。
温厚という言葉が誰よりよく似合う男。
柔和な笑みを絶やさず、実直で真面目。剣道の腕もいいし成績も優秀という事で教師からの評判はすこぶるいい。彼が新主将に選出されたのも日頃の評判が生んだ総合評価による。
だが彼も俺も、部員のほとんどが俺を主将にと望んでいた事を知っている。実力も残した成績も圧倒的に俺の方が上だと示してきた。
だから俺たちの間にはいつも埋められないものがある。だが清里さんはそれをいつも越えようとしてくる。だから俺はこの人の下で副主将として部を率いていくと決めた。
「清里さんの、後輩ですか」
「うん。子供の頃から一緒に育った。だから僕の剣道を見て、知らず色々覚えてしまったんだ。それに巴の弟も今年中三になるが剣道をやっている」
「……へぇ」
清里さんの目に俺は確かなものを見つけてしまった。
それは間違いなく彼女への恋だ。それを悟った時、俺は「厄介だ」と思った。何が厄介なのか考えるより先に言葉が浮かんだ。……厄介だ。

「部員が揃う前に少し打ち合わないか」
「はい」
この人を敵に回しても怖くは無い。だが、それをしたくないという思いが勝る。剣道には勝ててもその他の事では何一つ及ばない。
それでも俺は構わないと思った。俺には剣道しか無い。この道をただ進むしかない。
何も無い俺にたった一つ与えられたものが剣道だったのだ。剣道だけが俺の唯一。

そう、思っていた。

 

 

 

 

五月。
中間試験の結果が全て出たこの日、俺は数枚の答案用紙を握り締めて呆然と校門の前に立ち尽くしていた。爽やかな風が髪を揺らす。だが心は風を受けて一層萎びてしまった。
何で、こんな事に。
頭の中はそれでいっぱいだった。
剣道場の雨漏り修理で試験が終わっても明日まで部活は休み。だが暢気に帰宅できる気分じゃなかった。かといって普段部活に没頭する俺には寄り道の行き先が思いつかない。こんな日に限って左之助は真面目に野球部の練習に出ている。
家に帰りたくない。
何故なら今日は父親が京都から来ている。そして来ているからには見せないわけにはいかない。この、答案用紙を。
「……やっぱり野宿か」
その時、手の中の一枚だけが空を舞った。
「あ、」
慌てて追いかけた俺の手がそれを掴むより一瞬早く別の手に拾われてしまう。しまったと青ざめた時にはもう遅い。
「……緋村くん?」
「雪代……」
剣道部のマネージャーがいた。俺の英語の答案用紙がその手にある。
「これ、緋村くんの……」
「か、返せよ」
用紙を半ばむしり取るようにして取り戻した。赤いペンで三十七点と書かれているのを彼女は間違いなく目にしただろう。いつもあまり表情を表さないその顔に困ったような笑みが浮かんでいる。
「英語、苦手なんですか?」
「……別に」
英語だけじゃなく全教科苦手だとは言いたくない。だが手の中にある答案用紙はどれも赤点だ。しかもこの点数は去年から全く伸びない。よく進級できたなと言われるのは強ち冗談では無いのだ。

「あの、緋村くん」
このまま帰ろうとした俺を彼女は引き止める。意外だと思った。
「何」
「あの……さっき、先生が言ってたんです。明日から、希望者には放課後に補習をするって」
そういえばさっきのホームルームで担任がそんな事を言っていた。家で待っているだろう父親の事で頭がいっぱいでほとんど耳に入らなかったけれど。
「私も、英語のアシスタントで補習を受け持つの。もちろん部活には迷惑掛けないようにします。だから……緋村くんも」
「俺に……補習出ろって?」
意外過ぎて頭痛がする。
雑談らしい雑談だってした事の無い彼女からそんな事を言われるなんて。
……心配されているのだろうか?
「斎藤先生が……あんまり成績が良くないと進級できないって言ってたから……」
「……う」
その通りだと肯定するのはやはり情けない。
だが事実だ。俺は何としてでも大学に進学しなければならない。しかもあのR大学に、だ。難関大として有名な国立大へ現役合格する。それが高校三年間の間に課せられている。
剣道で国体に出るとか全国大会で優勝するとか、そっちのほうがどれだけ現実味があるだろう。
「斎藤め、口が軽すぎる」
「緋村くんのお父様とお知り合いだって」
「斎藤と俺の父親は昔の剣道仲間だってさ」
「お父様も、剣道を?」
「お父様なんてそんなガラじゃない。それに、実の父親じゃないし」
そうなんですか、と彼女は視線を上げた。その漆黒の目と俺の目が正面から対峙する。意外に強い目だ。そう思った。
その時俺は校門前で彼女と立ち尽くしている事に気付いた。もうとっくに夕暮れだ。
「……暗くなってきたから、帰るか」
「はい」
彼女も慌てたように辺りを見回す。もう六時になろうとしていた。
「雪代、家はどっち」
「A駅の近くです」
「じゃあ方向は同じだ。……行こう」
方向が同じなら一緒に帰るのも不自然では無いはずだ。俺は何となく彼女とこのまま会話を続けたいと思った。話が上手な方じゃないし、彼女も口数は多く無い。それでも何か伝え合えるような気がしていた。
そうだ、初めて会った日から何となく感じていたんだ。
どこか懐かしいような、昔どこかで会ったような既視感。
「もしかして、前にどこかで……」
隣を歩く彼女が不思議そうに俺を見る。その目を俺は知っているような気がしてならない。だが、いつどこで……それが思い出せない。
「いや……何でもない」
「あの、聞いてもいいですか」
珍しく彼女の方から話題を出してくるなんて。どうぞ、と視線で促せば彼女は先程の、と言い出した。
「斎藤先生と、緋村くんのお父様って、剣道仲間だって」
「ああ、まぁね。詳しくは教えてもらってないけど、十年以上前からの知り合いらしい。だから俺がこっちの高校に行くって決めた時も斎藤がいるこの高校にしろって」
「緋村くん、中学は……」
「俺、出身は京都なんだ。実は一人暮らし」
そこで巴が驚いたように目を丸くする。その仕草が不思議と愛しい。
「一人暮らし……?」
「学校には内緒にしてるけど、斎藤は知ってる」
「どうして……」
どうして。
その理由を彼女にだけは知っておいてほしいと思ったのは何故だろう。
秘密を共有してほしかったのか、自分の事をもっと知ってほしかったのか、ただ会話を続けたかっただけなのか。
どうして。
それは俺が知りたい。その理由を俺が見つけたい。
どうしてこんなにも、君の事が気になるんだろう。
「俺、こっちの高校受けるの反対されてたんだ。でも親の反対を押し切ってこっちに来るって決めた。当然家から叩き出されて、アパートで一人暮らし。そうは言っても月に一度、京都から父親が様子を見に来るんだけど」
そして今日がその日なのだ。
思い出すと憂鬱だが今は彼女が隣にいるというだけで気分は落ち込まずに済んでいる。
「お父様、緋村くんの事が心配なのですね」
「いや、仕事のついでに」
「京都から仕事で?」
「月に一度、こっちで個展をやるんだ。それに合わせて上京してくるんだけど、今日がその日なんだ」
「個展? 芸術家なんですか」
彼女の顔に興奮の色が見える。俺は少しだけ得意になった。確かに個展なんて誰でも開けるわけじゃない。あの男が常人離れしているのだ。
「自称陶芸家。昔は京都で剣道を教えてたみたいだけど、俺が引き取られた頃にはもう第一線は退いてて隠居ジジイみたいな生活してたよ」
「じゃあ緋村くんはお父様から剣道を習ったのね」
「ああ」
今までこんなふうに自分や父親の事を人に話した事は無かった。
聞かれた事も無いし、話そうと思った事もない。そういえば去年ほんの数ヶ月付き合ってた隣のクラスの女子に言われた事がある。『剣くんって自分の事、何も話してくれないのね』って。確かにその通りだ。今まであまり人と関わろうと思わなかった。その意思が働かなかった。
孤高を気取っていたわけじゃないけど、一人のほうが気が楽だと思っていたのは事実だろう。たまたま同じクラスになった左之助とは何故か気が合ってたまに遊んだりするけど、それ以上では無い。
そんな俺が今、この雪代巴という人間に対してこんなにも己を明かそうとするのはどうしてなんだろう。相手を知りたいと思うよりも、自分を知ってほしいという思いが強い。
そう、俺を知ってほしい。もっと深く、俺の全部。生き方も考え方も何もかも。
……今度こそ。

「え?」
「緋村くん?」

……今度こそ、って何だ。どういう意味だ?

「どうか、しましたか?」
「い、いや……」

自分の中にもう一人「自分」がいるような気分だ。

「実を言うと、緋村くんの事、一年の頃から知ってました」
彼女の突然の告白に俺は思わずその横顔を振り向いた。咄嗟にこみ上げてきたのは嬉しさ。巴が自分を知っていた。自分が彼女を知るよりも前から。それがあの既視感の理由なのだろうか。
「剣道部の新入生の一人が物凄く強いって明良さ……清里先輩から聞いて、それで」
「ああ、清里先輩と幼馴染み? だっけ」
チクリとした痛み。嫉妬だとすぐに分かった。
「何度か合同授業で一緒になった事もあるんですよ。……気付いていなかったでしょう」
「ああ……ごめん」
いいえ、と巴が微笑む。その自然な表情に目が奪われる。
気付けばその指先にも目がいった。白く細い指。彼女はその体も雰囲気も、とても儚げで消えてしまいそうに見える。だからこんなにも俺の気持ちを掻き立てるのだろうか。
巴を見ていると、泣きたくなる。
「……巴」
「え?」
「あ、ごめ……雪代は」
「……巴で、いいです」
駅が見えてきた。人通りが増えてきた道の真ん中で立ち止まった巴がこちらを見つめてもう一度言った。
「巴で、いいです……」
「……うん」
その後何を言いたかったのか忘れてしまった。再び歩き出した俺のすぐ隣を巴が歩く。
当たり前の帰り道なのに隣に彼女がいるというだけで違う道に見える。
いつもの風景が今日は鮮やかに目に映る。
昨日と同じ、明日も変わらぬこの夕景。
その中に俺たちは今、確かに。
「あの、緋村くん。さっきの話……」
駅から電車に乗る俺は改札の前で立ち止まった。
「さっきの?」
「補習。……一緒に、出ませんか」
「……ああ……」
答案用紙の事を思い出し、再び頭が痛くなる。帰宅してそれを父親に見せたら一体何と言われるか。気が重くて溜息が出る。だが補習に出るからと言えば少しは見逃してくれるかもしれない。それに巴との時間をもっと増やしたい。そちらの方が大きい。
「分かった、出るよ。部活の方は何とかする」
「よかった……」
安堵したように目を細める巴。俺はただ君と過ごす時間が欲しいだけなんだと知れば俺を見る目が変わってしまうのだろうか。
今日はたまたま校門の前で顔を合わせたに過ぎない。約束をしたわけでもない。明日からはまた、剣道部の副主将とマネージャーという関係に戻る。それが嫌だと思う、その理由。

「……巴」
「はい」

名前を呼べば涼やかな声で答える君の姿が何かに重なる。
霧の向こうに見える人影。
つかめそうでつかめない幻影の先に、誰かがいる。

「俺、たぶん」

胸に力が沸いてくる。それは開き直りでも、強がりでも無い。
素直なまでに真っ直ぐで、純真とは言えないけれど偽りのない感情。
それを巴に告げたい。
今はそれだけでいい。
その先の事は、今は考えない。

今は、目の前に君がいる。

それだけで、いい。

「君が、好きだ」

 

 

 

 

続く