【秋の果】

この「秋の果」は2010年、縁×薫アンソロジー第2弾の事前予約特典として発行したものです。
その後、2012年に縁薫再録本を発行するにあたり再録しました。
自分が書いた縁薫小説の中で……一番気に入っている、おそらくこれ以上の縁薫はもう書けないだろうなと思うくらい好きな作品です。
縁×薫で、しかも剣心が薫の夫として存命である、という。
私の書く縁薫は大抵剣心はすでに死んでいる設定なんですけども(笑)。
薫の死は「花時雨」で(縁薫アンソロ第一弾再版分に収録)、
そしてこの「秋の果」は縁の死を描いています。

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【秋の果】

 

己が生きてきた痕跡は全て消し去ったつもりだった。
何も残さず、誰の記憶にも留まらずに。
そうやって、あの冬の雪がひそやかに融けて消えるように自分もこの世界から融けてしまえばいいと思っていた。
だから、今目の前にいる女の顔ほど俺を脅かすものは無い。

「ばか。……大ばかよ」

泣き笑い。そんな表情で女は俺の顔を真っ直ぐ見て、そして視線を逸らした。嗚咽が聞こえてくる。それでも再び視線が戻った時、女はその目に強さを取り戻していた。
そして俺に、微笑む。

「……おかえり」

そう言って、しなやかな腕で俺を抱きしめた。

◇◇◇

 

明治も二十年を過ぎれば江戸の名残などもう何処にも見当たらない。
東京という名の町は活気と人に溢れ、通りを行き交う行商や客の声はこの部屋にまで聞こえてきた。常宿と呼ぶには長い付き合いではないが密かに東京を訪れるたびに利用しているこの宿は大通りから一つ二つ路地を入った川沿いにある。注意せねば通り過ぎてしまうほどくたびれていて、旅費の少ない者を主な客とし宿の者は寡黙だ。このひっそりとした古臭さが気に入っている。

この宿を、そしていつも泊まるこの部屋を数年ぶりに訪れたのはまだ山も水も青々としていた頃だったが今はもうすっかり色を替え、山は赤く水はその色を映して鮮やかに彩られている。四季があるというのは色があるという事。日々少しずつ濃く深くなる東京の空を見上げていると身体を蝕む痛みが遠のくような気がしていた。

ふと手元に目をやれば開封されないまま何か月分も溜まった薬がある。上海の知り合いの医者が顔色を変えていた。中国全土からかき集めたという薬。飲み続ければ一年は保つ。だが、それでも一年。ならば俺は残された時間を好き勝手に……いや、今度こそ本気で「自分のために」生きてみようと思った。完治する見込みも無くほんの数ヶ月を生き長らえるくらいなら。

終わりは、自分で決める。

薬を部屋の隅のゴミ箱にまとめて捨て、開けた窓から聞こえてくる喧騒に耳をすませた。
東京。あの女が暮らす場所。何故この国を、東京を最後の場所に選んだのか自分でもよく分からない。郷愁とは違う。思えば自分はこの東京出身のはずだが、そういった懐かしさに惹かれたわけでも無い。全てにおいて丁度いいから。人一人死んだところで何も変わらない町。だからここに決めたのかもしれない。

あの女が生きている。この空の下に、いる。
そんな甘い幻想は最初から持ち合わせていない。でも、ほんの少し、眠る前に思い出す程度には感じてみてもいいだろう。

何も無い。
何も残さないまま、俺はここで死んでいくのだから。

 

先月より身体は重くなっている。
久しぶりに外出でもしようかと宿の者に言付けて外に出た。もう半月は出歩いていなかっただろう。町並みは変わっていないが空気は思ったより冷え込んでいた。どうやら寝て過ごすうちに秋は通り過ぎたらしい。遠目に見える赤々とした山はもう枯れ、空も鈍く垂れ込めている。

冬が近い。その寒さに気持ちまで冷え込んでくる。あてもなく歩き、立ち寄った店先を覗き、誰も居ない川原に座り込む。やる事も無ければ目的も無い。ただ「その日」が来るのを待つだけだ。
ここで一晩明かせば簡単に死ねるかもしれない。だが、運悪く生き残るのは格好がつかない。意味の無い事ばかり考えていると東京に来た意味さえ忘れてしまいそうになる。

自分のために生きる。
そう決めて上海を発った。死に場所を求めて、姉が眠るこの国へ来た。
やがて訪れる「死」に向き合うために。
今度こそ、自分を見失わないように。
だが、結局は部屋に閉じこもって毎日を無為に過ごしていただけだ。一人になってみて、自分には何も無い事が身に染みた。いや、敢えて全てを消して生きてきたんだ。俺の存在は無なのだと。

生きた証なんて要らない。
俺の人生は姉のために捧げるのだと、そう決めていた。
復讐という空虚な夢が潰えた時、「無」が「虚」になった。
そこに、生きる執着が見えた。
あの女だ。

 

「……薫」

 

名前をまだ覚えていた事に、少なからず驚いた。
口に出して呼んだ事は数えるほどしか無いはずだ。それももう十年近く昔の事。あれから一度も会っていないし名前を呼んだ事も無い。とっくに忘れてしまっているかと思っていた名前は簡単に口唇からこぼれてしまった。溜息とともに寒空に吐き出された女の名前が胸に響いてくる。

薫。神谷薫。いや、今はもう緋村薫になっている。
生きるという事そのものの象徴のような女だった。飯を食えと五月蝿く言っていた。生への強い執着を持つ者はあんなにも眩しいのかと、海を見ながら考えた事もあった。

姉とは正反対だ。何もかも。
己の命さえ顧みず愛する者のために生きて死んだ姉と、愛する者のために必死で生き続けたあの女。顔も声も違うのに、二人の瞳には同じ男が映り込んでいた。だから、あの女の目に奴が映るのを見た時……確かな嫉妬を感じたんだ。

立ち上がって川の向こうを見つめた。一刻ほど歩けばあの女が住む町だ。場所が変わっていないのなら、辿り着く自信がある。
けれど、行くつもりは無い。会うために来たわけじゃない。
そう言い聞かせ、俺はまた宿への帰り道を歩いた。
空っ風が背中に強く吹き付けてくる。
今頃あの女は家で不味い夕餉の支度でもしているのか。考えたくないと思っても勝手に巡る思考を止められないまま俺は帰路へと続く雑踏に紛れた。

 

宿の部屋はよく暖められていた。部屋も片付けられており、布団も新しくなっている。長逗留する事は伝えてあったが随分気が利いている。しばらく上の空で窓の外を眺めていると躊躇いがちに声がかかって宿の女が襖を開けた。「お茶を」と差し入れられるのを黙って受け取る。
「お夕食は、魚でよろしいですか」
「……ああ」
そんな事を訊かれたのも初めてだった。どうも様子が変だなと思いながらもじきに運ばれてきた夕餉に手を付け、そしていつもの時間に風呂に入れば昨日までと変わらない夜更けが訪れる。食事を摂り、風呂に入り、寝る。当たり前の事をただ過ごしているだけなのに、何故か悲しいほど生きている実感を持てた。
この身体は生きている。今この瞬間、確かに。
あの女はよく「飯を食え」と言っていた。
それは「生きろ」という事だったのか。あんな状況におかれてなお、俺に生きる事を説いていたのか。思い出せばやはり変な女だという印象が強い。女のくせに剣を取り、料理や裁縫が下手で、剣術の師範代なぞを生業にしている。人質だという立場も忘れてよく説教を垂れていた。
けれどいつも、そして常に真剣だった。
そして、俺の名を臆する事無く呼んでいた。幾度も。
「…………」
これ以上あの女の事を思い出すのは愉しくない。俺はさっさと休む事にした。夢さえ見たくないと思う。あの女を脳が求めてしまえば、それだけでは足りなくなる事は分かっていた。

 

朝。運ばれてきた朝餉を済ませて一人部屋で暇つぶしに取り寄せた本をめくっていた時だった。廊下からこちらに近付く足音が聞こえ、視線を上げた。宿の者とは違うその足音。とっさに身体が反応してしまう。

「開けるわよ」

こちらの返事を求めない強い女の声が聞こえた。一瞬あの女かと思ったが声が違う。聞き覚えがあるような無いような声。返事をする間もなく部屋の襖がカラリと開いた。そこに立っていたのは見覚えのある女だった。俺を見て眉を寄せている。不機嫌といった表情だ。俺はやっと思い出した。この女の名前、素性。

「……高荷恵」
「あら、覚えててくれたの? 嬉しいわ」

言葉とは正反対に思い切りこちらを睨みつけて来る。高荷は部屋に入ってくると俺の目の前に立ち、何かを俺に見せてきた。その手が俺に突きつけたのは、昨日俺が捨てた薬だった。

「この宿の主人とは昔から懇意でね。病気療養らしい長逗留の若者が薬を捨てていて気になる、ってわざわざ私の所に持ってきてくれたの。白い髪に異国の装束だっていうからまさかと思ってね。薬を見せてもらって驚いたわ! この薬、アンタいくらするか知ってる? 日本じゃまだ高価すぎて町人には手が届かない代物よ。それをこんな大量に捨てるなんて、気がふれてるとしか思えないわ。でね、その気がふれた病人を診たくなって出向いて来たってわけ。そしたら予想通りアンタがいるんだもの、もう肝が潰れたわ」
「…………」

よくもそんなに舌が回るものだと半ば感心して高荷の顔を見上げる。十年以上の空白があり、しかも敵であった男を前にしても態度に恐怖や憎しみが感じられない。奴の周囲にいた者たちは皆どこか危機感が薄い。それは今も変わっていないのか。

「……この薬はね、病気を治す薬じゃない。身体の滋養を高める薬。根本治療にはならない。そんな薬をこんな大量に持って日本に帰ってきたなんて……」
「何しに来たんだ」
「言ったでしょ。診に来たって。私は医者よ」
「……俺は患者じゃない」
「病人は誰であろうと私の患者。いいから診せなさい」
「断る!」
「言う通りにしないとその口、縫い付けるわよ!」

その剣幕に思わず黙れば高荷は満足げに頷いて俺の前に腰を下ろした。

「……知ってるわ、アンタが毎年お盆に京都に来てる事。私はしばらく行ってないけど剣さんたちは毎年お墓参りに行ってるから。いつも剣さんたちより早く花を供えてるって。剣さんが前に言ってたわ。いつか、アンタとゆっくり話がしたい、って」
「…………」
「それから、薫さんも」
「…………」
「むしろ剣さんよりあの子の方がアンタの事、気にしてるわ。今年もまた花が供えてあったのに会えなかったって。ねぇ、もうそろそろ向き合ってもいい頃じゃないの?」
「余計なお世話だ。俺は奴とは……」
「分かってるわよ。もうこの話はしない。それより……」

高荷の顔色が次第に曇る。俺の手首の痣を見たらしい。

「……どうして、あの薬を捨てたの」
「必要無いからだ」
「そう。……そういう事なの」

高荷は溜息を一つ吐き出すと、立ち上がって部屋の襖を開けた。

「明日、もう一度来る。薬を持ってね。飲むか飲まないかはアンタの好きにしていいわ。でも、これだけは言わせてもらうわね。……このまま何もしなかったら、年は越せないわよ」
「…………」
「それじゃあ、」

帰りかけた後姿を俺は呼び止めた。振り向く高荷に言わねばならぬ事がある。

「何よ」
「俺がここにいる事、誰にも話すな」
「…………」

高荷は何も答えなかった。
来た時のように足音を立てて廊下を去っていく。その音も気配も遠ざかってしまうまで俺は息を詰めていた。

「……誰にも」

誰にも知られず、一人きりで死んでいく。
それを寂しいと思わせないでくれ。
会いたいと、願いたくない。

「……薫」

会いたいと、願いたくないのに。

 

 

 

 

翌日、気鬱して待っているとやはり足音が聞こえた。高荷が薬を持って来たのかと立ち上がって迎える用意をした。元より受け取るつもりは無い。襖を開けて顔を見せたらさっさと追い返そうと思った。いや、「まだこうして立ち上がれる」というのを見せたいのかもしれない。そんなつまらない意地が自分にもあったのかと嗤いながら足音が部屋の前まで来るのを待つ。そして、足音が止まった。
襖の向こうに人の気配を感じる。こちらから開け放ってやろうと手を伸ばした時、向こうから声が聞こえた。

「縁?」

高荷の声では無かった。

「私。……開けるよ?」

声が出なかった。
伸ばした指先が襖に触れるより早くそれはあっさりと開く。

「あ、」

目の前に俺が立っていて驚いたのか、目を丸くしている。
その瞳には今、俺が映っている。

「……薫?」
「うん。……久しぶり」

あの海で向き合った、十七の少女。
その面影を残しながらも、面差しはやはり年を経て変わっていた。その目元にいつかの名残を感じてみても、やはり記憶の中の姿とうまく重ならない。それは薫にとっても同じなのか、まじまじとこちらの顔を見上げている。

「……あんまり、変わってないね」
「お前もな」
「寒い。入ってもいい?」
「…………」

無言で一歩下がると薫は襖を閉めて部屋に入った。火鉢の側に座ると俺を振り返って、

「お茶でも飲まない?」

などと気安く言う。十数年という時の隔たりを感じさせないその言葉に俺はつい嫌味の一つでも言いたくなった。

「高荷から聞いてきたのか」
「うん」

あっさり白状した薫は着物の懐から小さな包みを取り出した。

「恵さんから薬を預かってきたわ。三日分」

受け取りながら不審に思った。僅か三日でどうしろというのか。
その答えはすぐに薫が教えてくれた。

「また三日後に届けに来るわ」
「お前が?」

そうよ、と頷かれ俺は思わず視線を逸らした。

「あの医者め」
「どうしたの?」
「……余計な真似を」

薫の耳には届かなかったのか、部屋を見渡して、

「いい部屋ね。静かで落ち着くわ」
「…………」

薫はどこまで聞いて知っているのだろうか。あの医者はすぐに俺の病状を見抜いたが、薫もそれを知っているのか。その割には態度が落ち着きすぎている。

「どうやって帰国したのか知らないけど、警察に見つかったら捕まるんでしょう?」
「何だ、密告する気か」
「違うわよ。恵さんから、縁がちょっと身体壊して療養してるって聞いたから心配してきたの!」
「……ちょっと、か」
「その割には荷物が少ないのね。すぐに上海に戻るの?」

ここからは薫に嘘をつこうと決めた。

「そうだ。……すぐに、戻る」
「そっか……」

そこで会話が途切れた。茶を運ばせようかと立ち上がって廊下から声をかける。やがて届けられた茶を前にすると薫が小さな声で切り出した。

「……黙って、出てきたの」

唐突過ぎてその言葉の意味が分からず続きを待つと、薫は湯飲みを両手で持って一口すすった。

「剣心にね、黙って……出てきたのよ」
「……何故」
「そうしたい、って思ったから」

そしてこちらに向けられる瞳があまりにも真っ直ぐで、受け止めるには重すぎた。彼女の中では十数年ぶりの再会かもしれない。
だが俺にとっては、今生の別れだ。
だからこれ以上、俺をかき回さないでくれ。

「……ほんの少し、顔を見るつもりで……それだけ……」

薫の指が震えているのを、俺は見ないふりをした。

「もう、昔の事だから大丈夫だって……思ってたのに……」

いけない。
薫の言葉をこれ以上聞けば、後には退けなくなる。
蒸し返すな。思い出させるな。
俺は全て、何もかも置いてきたんだ。
……あの海に。

「縁の顔見たら、やっぱり……ダメ」

コトン、と盆に湯飲みが戻される。
目線を下げたままの薫の横顔は今にも泣きそうだった。

「嘘、信じたフリして……すぐ帰るつもりで……」

黒い髪がその肩に落ち、余計に細く見える。彼女が何を言いたいのか察したい。けれど、見つめるのが怖かった。

「……縁」

薫が顔を上げた。目元が潤んでいる、そんな目で見つめられたら決意が揺らいでしまう。

「恵さんに……聞いてきたわ。あなたの、身体のコト」
「…………」
「でも、あなたが何でもないって言うのなら……それでいいって思った。顔を見たら、自分の気持ちに区切りがつくって思って。だから……剣心に、夫に……黙ってここまで来たの」
「待て、もう」

帰れ。これ以上、俺にお前の声を聞かせないでくれ。
そう言いたかったのに、言葉は続かなかった。
薫が俺を見る。濡れた目で、真っ直ぐ俺の目を射抜く。
間違いなくそこに、俺が……俺だけが映っている。

「ちょっと身体壊して、病気療養。恵さんがそう教えてくれたけど、私にはそれが偽りだって分かったの。そんな事であなたが日本に……この東京に来るはずないって思ったから。だから、本当のコト教えてって頼んだの」

俺は思わず手首を着物の下に隠した。もう全て知られているのにこの痣を見せたくなかった。現実は薫が知り、そして想像しているものよりも遥かに痛々しい。

「あなたがそのつもりなら……それでいいって思った。あなたの人生、あなたの生き方がある。でも……でも……っ」

涙が混じる。
あなたの人生、あなたの生き方がある。あの男の伴侶らしい言葉だと憎憎しく感じる。だがとても優しく心に染みてきた。
薫の声で紡がれるものは、どんな痛みでも受け入れられる。
それは今も変わっていなかったのだ。海際で怒鳴りあった時も、松林の中で繋いだ手を離した時も、月明かりの下で互いの口唇を許した時も。

「……薫」
「ばか。……大ばかよ」

笑って返そうとした俺の頬は引きつったままだった。

一人で死んでいく。
そのために、ここへ来た。
生まれた国、生まれた土地。ここで永久の眠りにつくために。
……それを言い訳に、俺は戻ってきたんだ。自分のために残りの人生を使い切る。その裏側で願わずにいられなかった。叶わなくてもいい。
ただ、願うだけの自由。
薫の側に、行きたい。

「……おかえり」

薫が微笑んでいる。
そうだ、俺はこの顔が見たかったんだ。
死ぬ前に一目でいいからと願ったものが今、目の前にある。

「か……」

もう躊躇わず名前を呼ぼう。
そう決めた俺の胸の中に、薫が飛び込んできた。
離れていた時間は膨大で、埋めるための言葉はいくつ重ねても足りない。それでも薫はあの海から東京へ戻る船に乗った時の事からゆっくりと話し始めた。その合間に「その時縁はどこで何をしていたの」と問う。

思い出せるだけの記憶と語っておきたい事を言葉少なに告げれば、薫は嬉しそうに相槌を打つ。この静かな時間が夕暮れまで続き、暗くなる前に帰らなきゃとお決まりの台詞で立ち上がった薫は部屋から出て行く前に一つの約束を残した。それは到底守る事などできそうに無い滑稽なものだ。無論俺は信じる事無く「じゃあな」と一言で別れを済ませた。
長引けば傷は深くなるばかりだ。今ならまだ、大丈夫。
今日こうして薫と再会できた、それだけで十分だと思わなければ明日からが辛い。生きる事に絶望だけはしたくなかった。あの日から今日まで繋いできた命だ。最後の最後まで、足掻いてみせる。

「うん。……じゃあ、またね」

パタンと閉まった襖の音がやけに大きく聞こえる。
薫が去った後の部屋は急に温度が下がったように冷えてきた。
彼女の側に置いた火鉢の中を混ぜていると、不意に薫の髪の匂いが着物から立ち上った。

「……これが」

不覚にも、涙が溢れた。
後悔しても遅い。
こんな生き方を選んだのは俺自身。姉を失った日から、全て自分で決めて歩んできた。誰のためでも、誰のせいでもなく。
だから、悔いるものは無い。
そのはずなのに、今は欲しくてたまらない。
十年とは言わない。一年。いや、半年でもいい。
生きていたい。
そう思う。
薫と同じ時を、生きたい。

「……恋か」

忘れたはずのものを全て、取り戻してしまった。

 

 

 

 

 

三日後。
薫から手渡された薬は言われた通りに飲んだ。気休めでもいい、少しでも何かを繋げる事ができればいい。そんな想いが通じたのか三日経った朝、約束通り薫が再びやって来た。だがこの前と様子が違う。
真夏の太陽のような朗らかな笑みで目の前に現れた。

「おはよう。悪いけど、下で待ってて」

いきなり部屋から追い出され、俺は宿の階段下で待たされる事になった。霜月も半ば、座布団一枚ではさすがに寒い。見かねた宿の小間使いが熱い茶を出してくれたのを受け取りながら天井を睨みつけてみる。バタバタと薫が部屋で動き回っている音が聞こえ、宿の主人たちも不思議そうに顔を見合わせていた。

「あの人、お客さんのお内儀さんかね?」
「……いや」

尋ねられても返答に困る。薫との関係。義姉とでも呼べばいいのか。いや、そんなのは絶対に嫌だ。無性に腹立たしくなり、呼ばれる前に部屋に戻る事にした。襖を開けると、部屋の様子が一変していた。

「……おい」

その意図はすぐに知れた。どういう事だと問い質すため薫の姿を探す。薫は部屋の奥でこちらに背を向けて広げた風呂敷の中から荷物を取り出している。

「……どういうつもりだ、一体」

それでも訊かずにいられなかった。

「え?」

振り向いた薫は部屋を見渡して「あのね」と誤魔化すような笑いを浮かべる。

「い、家を追い出されちゃって」
「…………」

お前の名前を道場に掲げているくせに。そんな目で見つめ返すと薫は肩をすくめた。嘘をつくのは止めたらしい。

「しばらく、ここにお世話になる事に決めたの」
「……オセワニナル?」
「というより、私があなたのお世話するんだけどね」
「俺の……世話?」

やはり、と思った。同時に胸の中を冷たいものが落ちて、そしてそれが一瞬で沸騰する。

「ふざけるな! 帰れ!」
「言うと思ったわよ! でもね、こうして荷物まで持ち出して来たのよ! 今更帰れるわけないでしょう!」
「そんな事知るか! お前一体どういうつもりだ!」
「分かってるくせに」

薫が投げつけてきたのは枕だった。

「おい、」
「女に言わせないでよ! 野暮!」
「なっ……! お前ッ」
「もう決めたの。……剣心にもちゃんと伝えてきた。誰にも文句は言わせないわ。私が自分で決めたの」
「俺の……俺の日常に関わってくるな!」

枕を足元に放り投げると、薫はこちらに寄ってきた。腰に手を当てて母親のような顔をする。そうだ、確か子供が一人。

「ガキはどうした。まだ小さいんだろ」
「もう十歳よ」
「…………」
「聞いて。……ちゃんと、話しましょう」

まだ片付かない部屋の片隅、開けた窓から舞い上がる埃が流れていくのを見やりながら座布団に腰を下ろす。不意に眩暈を感じたが悟られぬよう顔を背けた。

「あなたの命が、もう、永くないって聞いて」
「同情なら不要だ。帰れ」
「話を聞いてって言ったでしょう! ……そう言われるのも承知で来たのよ。そう、同情よ。可愛そうだと思ったから来たの。そうでもしなきゃ耐えられないと思ったのよ。……私が」
「…………」
「あなたに嫌がられても迷惑がられても……私はここにいるって決めた。これは私のためなの。私自身がそうしたいって思った事なの。……あなたのためじゃなくて」
「…………」
「今日から、ここに私も住む事にしたわ」
「……お前」

言いかけた俺の声を薫は目で制す。その鋭さに僅かに背中が引きつった。小娘だと侮る事はもうできない。竹刀を持って向き合えば今の俺ではもう敵わないかもしれない。
それほどまでに己が弱っているのだと認識した時、今目の前にいる薫とその決意を受け止める気になった。

終わりを決めるのは、自分だ。
残された短い時間の余興だと思えばいい。
もうこの足は何も追いかけない。腕は何も掴まない。
「その日」までゆっくりと息をするだけだ。
だから、目を閉じてみる。
差し出された薫の手を受け入れて、朝焼けが何色をしているのか分からないまま迎えるのもいいだろう。何よりも望むものを、二度と手放さないように。
終わりは、必ず来る。

「いいよね?」

首を傾げて俺を窺う薫は悪戯を仕掛けた子供のように無邪気だった。死ぬ間際の男を看取る、そんな悲壮感はどこを探しても見つからない。これがこの女の最大の武器だ。
命の終わりを知っているくせに、それを繋ごうとしている。
生きていたいと思わせる、厄介な女。
だが今の俺にとっては、薫こそが命そのものだ。

「……ああ」

足元が崩れるような恐怖。
けれど、目の前に一筋の道が見える。
明るい光が差している。
あたたかく、やわらかい。

「……薫」

こんな些細なもののために生きてきたのだと、知ればお前はどんな顔をするのだろうか。誰もが持っているはずのその温もりを俺は疾うに捨ててしまっていた。再び手に入れるためにここへ戻ってきたのだ。あまりにも遅すぎたけれど。

「何?」
「俺は、まだ」

間に合うか。
今からでも。
何のために、何処へ向かえばいいのか。
分からないまま、もう一度。

「……生きてるわよ」
「…………」
「あなたは、まだ……生きてる」

それだけが俺の、全て。

 

 

◇◇◇

 

 

しばらく続いた雨が上がると、季節は一気に冬を迎えた。
寒々しい町並みを歩きながら、隣の薫は厚い羽織を着こんで俺と腕を組む。捨てたはずの薬があの女医から届けられ、それを大人しく飲み続けているおかげで昼間は何とか動き回れる。だがその分夜になると疲労と痛みが押し寄せてきた。
そして今日は薫に急かされるままに外に連れ出された。町の通りから外れの集落へ、川沿いの道をゆっくりと歩き途中の店で遅い昼食を摂った。そこからまた少し歩くと、何も無い野原に出た。

「こんな寒い場所に用事か」

問うと薫は見逃してしまいそうな小さな祠を指した。

「お参りしていきましょ」

どうせならもっとご利益のある神社に行けばいいものを。そんな文句を口の中で濁しながら仕方なく薫に並んで手を合わせた。薫があまりにも真剣に目を閉じているのを見つけて、

「何をそんな必死に祈っているんだ」
「……ちょっとね」

やっと顔を上げた薫は祠から少し歩いた川沿いへ向かう。

「このへん、見覚え無い?」
「無い」
「三十年以上経つもんね。すっかり変わっちゃったかな」
「…………」
「思い出した?」
「…………」

思い出せなかった。そもそも記憶に無い。あの頃、まだこのあたりも時代も江戸と呼ばれていた頃、俺が生まれた家があった場所。父と姉と三人で暮らしていた家。確かに覚えているはずなのに懐かしさは感じなかった。

「……帰るぞ」

こんな場所に連れ出すのが目当てだったのかと薫を睨めば、薫は灰色の寒空を見上げて白い息を吐いた。

「そうだね」

呼吸の度に肺が苦しい。それでも冷たい空気を吸い込んで奪うように薫の手を握った。

「……帰ろうね」

 

 

その夜、薬の副作用で強い眩暈を感じたがその浮遊感に身を任せるように薫を抱いた。この部屋で暮らすようになって何度目か分からないが、今夜は何故か無性にそうしたくなった。
過去の足跡はもう無い。
未来への希望など持たない。
今だけ、この瞬間だけ。

「やっ……縁、待っ……て!」

こんな事は余計に身体へ負担をかけ、命を縮めるだけだと言われた。
長生きしたいのなら大人しく、隠居老人のように生きろと。
生き永らえるつもりなら最初から日本に来ない。欧州の先進医療を受けている。生き方も死に方も自分で選ぶために日本へ来た。
そして側に薫がいる。その結果に過ぎない。

「んっ……や、ぁ……」

強引に押し込んで、そして独りよがりな行為を終える。荒い息を吐きながら見下ろした薫の頬の火照りが艶かしい。

「もう……。あんまり、激しくしたら身体が……」
「関係ない。……もう一度だ」
「ちょ……やだ、今だって中に……」

汗ばむ身体を掴み、今度は反転させる。腰を引けば薫が苦しそうな声を漏らした。それでも俺を受け入れる。

「……何も、要らない」

過去も、記憶も、執着も、命も。
全て捨てて、何もかも振り払って、ゼロになればいい。
薫の心音が聞こえる。
そこに混じる己の鼓動さえ、不要だ。

 

 

◇◇◇

 

 

年の瀬の賑わいを聞きながら俺はぼんやりしていた。
近頃は眩暈のせいで起き上がるのも億劫だった。そんな俺に飽きる事無く付き合う薫の膝を借りて火鉢を傍らに寝そべる日々は本当に隠居爺のような生活だった。

「宿のご主人がね、お正月に御節を作ってくれるって」
……そうか。

「あ、後でお薬もらいに行って来るね。年末年始は恵さんの医院もお休みするだろうから、早く行かないと」
……そんなもの、もういいだろ。

「あ!」
……なんだよ、耳元で大きな声を出すな。障る。

「黒い髪! 生え際が黒くなってきてる」
……なんだ、そんなの前からだ。

「やっぱり縁、日本人なのねぇ」
……当たり前だろ。

「ついでに耳かきもしてあげようか」
……人を年寄り扱いするな。

「それじゃ、そろそろ恵さんの所行ってくるね」

 

薫の身体が離れてゆく。体温が失われる冷たさに思わず目を開けると、出かける支度を終えた薫が襖を開けてこちらを見ていた。

「じゃあ、行ってきます」

まるで子供のように手を振りながら笑う顔が見えた。

……ああ。行って、こい。

 

そう言いたくてももう声がうまく出せない。視線だけで見送ると薫は頷いてそして襖を閉めていった。トントンという足音が遠ざかる。宿から出て行く声も聞こえなくなると、重い疲労感が押し寄せてきた。
薬などもう不要だ。上海から持って来たあの薬ももう残り僅かだし、あの女医が調合している薬は痛み止めの効果を失いつつあった。日に日に悪化する身体を食い止める術はもう無い。

それでも諦めず、表情一つ変えずに毎日俺に寄り添う薫の心情は一体どんな色をしているのだろうか。とっくに諦めているのか、それとも見えない希望を探しているのか。
どんな薬よりもお前が側にいてくれる方がいい。
そう告げれば、あの女はやはり微笑むのだろうか。
再会した時と同じ、あの優しい目のままで。

「縁。だめよ、こんなところで寝ないで」

出かけたはずのお前の声が、何故か聞こえる。
母親のような言葉。俺はお前に見知らぬ「母」を求めていたのだろうか。女々しい話だ。姉の次は母親か。
人は、死に直面するとこんなにも弱くなるのだろうか。
心の姿をむき出しにして、願いをあっさりと口にするものなのか。

悪くない。……そうだ、悪くない。
心を偽らない事がこんなにも心地よい。
眠りにおちる寸前の、逆らえない眩暈に似ている。

「……縁?」

俺という一人の人間の存在を全て消しておきたかった。
誰の記憶にも残らず、ひっそりと、雪が融けるように。
それなのに正反対の願いを持ってしまったのは薫と再会し、そしてその肌に触れてしまったからだろう。
己の証を刻むように抱いてしまったからだろう。
恋を、したからだろう。

 

「縁!」

 

聞こえている。
お前の声はいつも、俺の名前ばかり呼ぶ。
昔からそうだ。人質になっていた時も、京都で偶然出会った時も、そして今も。お前は躊躇わずに俺の名を呼ぶ。
だから同じ声で、俺の行く道を教えてくれ。
迷わぬよう、辿り着けるように。
お前を待っているなんて、そんな事は言わない。行き先はきっとお前とは違う。だからそこへ迷わず行ける様に、 お前の声で送り出してくれ。
雪が、降る前に。

 

「縁……!」

 

目を開けたら、またお前の顔が見たい。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「そう。……お疲れ様」

恵に肩を叩かれ、薫は「うん」と頷いた。手に持つ位牌を胸に抱き寄せながら医院の窓から外を見る。外は雪だった。

「一度も顔を出さずに、悪かったわね」
「いいの。……私が一人でって、決めた事だから」
「……剣さんは、何て?」
「落ち着いたらきちんと弔う支度をしよう、って。京都の巴さんのお墓と一緒に東京に移すかどうかも考えるつもり」
「そう。私で力になれる事があったらいつでも相談して」
「ありがとう。……恵さん」
「うん?」
「私……これで良かったのよね。……これで」
「……それは、私には分からない。でもあなたが後悔していないのなら、間違っていなかったのだと思うわ」
「……うん」

 

恵の医院を後にした薫は襟元をかき寄せながら雪道を急いだ。
傘を差す程でもないが雪は淡く降り落ちてくる。道の上に積もった雪が歩調を阻み、家に帰ろうか寺に寄ろうか薫を悩ませた。
胸元に抱いた位牌が体温であたたかい。まるで縁の心そのものを抱いているようだと薫は口元で笑んだ。その顔はきっと彼の最期の顔と同じだろうと思いながら。

結局縁は薫に何も残さなかった。
薫が縁の子を望んでいた事に気付いていたのか定かではないが、縁は本当に雪のように消えてしまあったのだ。遺品という遺品も無く旧知の者への手紙一つ無い。最期まで彼が身につけていたのはあの眼鏡くらいで、それも彼の身体とともに葬ってしまった。

(……それでも)
雪代縁という名の人間が確かに生きていた事を薫は知っている。
人の生きた痕跡を全て消し去る事などできない。
形で残せなくても想いがいつまでも残る。
そしてその想いは、時に切なく慰めてくれる。
(私は、あなたに)
言葉にしなくても、感じる事ができる。
見えない魂の存在を、温もりで思い出す事ができる。
(恋を、していたの)

雪の上に残る足跡は、一つきりでも。