【 さよなら 】

教室の扉を開けた時、窓際の席に見慣れた姿を見つけた。

「まだ、残ってたの」
「……雪代か」

こちらを向いて、そして囁いたのは彼。
私はその隣の、自分の席に置いたままの鞄を取りに来たのだ。席に近付けば、彼がぼんやりと本を読んでいたのだと知った。

「……帰らないの?」
「ああ、別に……」

もともと口数の少ない彼と、こうして二言三言言葉を交わすようになったのは、いつだったか。

「今から、帰るのか」
「ええ」
「じゃあ、俺も帰る」

彼はそう言って開いていた本を机の中にしまった。そして乱暴に鞄を肩に掛ける。その瞬間、彼の左頬の傷が目についた。剣道部の試合で負ったのだという。その事件は学内外に広まり、剣道部主将に傷を負わせた相手は誰だという噂でもちきりになった。私はその相手を、よく知っている。

「……清里さん、元気か」

突然彼に尋ねられ、私は曖昧に頷いた。「ええ、元気よ」と、答えればいいのかも分からない。彼は「そうか」と呟いて、さっさと教室を出て行く。私はその後を少し足早に追いかけた。

「緋村、くん」
「……次の試合、絶対勝つから」

振り向かず、彼は言った。そしてまた歩き出す。
私はその背中に「はい」と頷く事しか、できない。
彼は私の同級生、あの人は私の婚約者。
そして私は、彼に恋をしている。

正門を出ると、道の向こうに彼の後姿が見えた。帰る方向は逆。

「さよなら……緋村くん」

さよなら。でも、すぐにあなたに会いたい。
……会いたい。