【夏果て、君と】

 夏の熱気を孕んでいた風がいつの間にか少し冷たく、肌に触れてくる。

「もう夏も終わりでござるなぁ……」

 まだ空は夏の色をしているのにと縁側から見上げながら首筋に張り付いた髪を払って一息ついた。
 この家には今日、自分しかいない。家主の少女は出稽古のため弟弟子を連れて隣町の道場へ、タダ飯を食いに来る若い喧嘩屋は珍しい薬品を買いに遠出する女医の用心棒として数日前から顔を見せない。
 久しぶりに静かな晩夏の午後を緋村は一人、家の掃除だけをして過ごしている。
 それもあらかた終わり、あとはのんびり茶でもすすろうか、河原の方まで散歩にでも出ようかと思っていた。
 何もしないという事にまだ心のどこかで慣れない自分がいる。そんな自分に苦笑が漏れた時、表の方に人の気配を感じた。家主が帰るにはまだ早い。
 今夜は遅くなると聞いていたから客人だろうか。近所の住民や知人なら勝手を知る母屋の奥まで来るのにと門の方へ足を向けた。
 そこで息を止めた。
 客の気配で正体が分かったからだ。
 さてどうしようか、己は今、丸腰だ。箒さえ庭に置いてきてしまった。
(その時は……その時か)
 半ば諦めたような心持ちで気配の方へ歩く。客の姿が見えるところで足を止めれば客も気付いたのかこちらを向いた。

「……抜刀斎」
「縁。……久しぶりでござるな」

 現れたのはかつては死をかけて戦った相手だ。
 異国の衣装、その視線を隠す黒い眼鏡。背に武器を背負っているがそれを抜く様子は無かった。
 何の用だと問いかければ刃物を向けられる気がして緋村は黙った。縁に敵意を感じなかったせいもある。

「静かだナ……貴様だけカ?」
「ああ。薫殿と弥彦は出稽古で不在でござる」
「別ニ……会いに来たワケじゃナイ」

 そう言うと縁は荷物を取り出して緋村の前に突き出した。

「大陸土産だ。……前に京都に墓参りに寄ったら葵屋の爺が貴様に挨拶してから船に乗れと言うから仕方なく来タ」

 どうやら巴の墓参りで京都御庭番衆の翁と出会ったのだろう。事情を知る翁だ、毎年墓参りに帰国するくせに東京には絶対立ち寄らない縁を諭したのだろう。それは緋村自身が頼んだという裏事情を縁はきっと知らない。

「そうか……では、ありがたく」

 差し出された荷物を受け取った。ずっしりと重い。

「菓子はあの女とガキに、酒は貴様にダ」
「それはそれは……随分と気が利くでござるな」

 つい本音で喜ぶと縁は冷めた顔で言った。

「これっきりダ。……来年はもう来なイ」

 そのまま踵を返して去ろうとする縁を緋村は引き止めた。

「待つでござるよ、縁。酒とは洋酒でござろう? 拙者、飲み方を知らんのでござる。よければ教えてくれぬか」
「適当に飲メ」
「ならば一緒に」
「何故」
「京都からわざわざ立ち寄った礼もしたいのでござるよ」
「不要ダ」
「そう言わずに」
「…………」
「最後ならせめて、話でもしたいでござるよ」

 すると縁は大仰に溜息をついてみせた。

「相変わらず変な男だナ、貴様は」

 翁に言われて素直にここに立ち寄るお主も、と緋村は心の中で返しながら自然と笑みが浮かんだ。

「拙者の部屋に案内するでござるよ」

 縁は黙って後ろについてきた。母屋に上げて部屋に通す。障子を開け放てば庭に面した部屋に明かりと風が入る。

「茶を淹れてくるので座って待っていてくれ」

 縁は答えなかったが部屋の隅に座った。それを見届けて緋村は茶の用意をした。
 戸棚に赤べこの妙からもらった菓子があるが縁は食べるだろうか。他に何かあるかと探し、結局見つからず少し冷めた茶を持って部屋に戻った時、縁はそこにいなかった。だが荷物は置いたままなので厠にでも行ったのかと廊下の先を見たが縁の姿は母屋ではなく道場に続く道の方に見えた。

「おろ?」

 緋村は茶器を載せた盆を手にその背を追う。縁は道場の中へ入っていった。
(さて、どうするつもりでござろう)
 武器は手にしていないようだから乱暴な真似はしないだろうが、と緋村は不安半分面白さ半分で後に続いて道場に入った。
 掃除が行き届きがらんとした道場の中央に縁はこちらに背を向けて立っていた。その手にあるものは……、

「酒瓶……でござるか?」

 縁が振り向いた頷いた。

「貴様と杯を酌み交わすなど俺にはできん……が、飲み比べの勝負なら受けて立ってヤル」
「…………おろ」

 真剣な顔をして言う事が随分と子供じみていると思ったが顔には出さなかった。何より縁が自分からこちらと関わりを持とうとしてくれた事が嬉しい。それは……たぶん「家族」の情に似ている。

「いいでござる。……本気で参るでござるよ」
「ふん……大陸の酒を甘く見るなよ、俺は飲みなれていル」

 道場の中央に向かい合って腰を下ろした。縁が持っていた大きな酒瓶の中には赤く艶やかな液体が入っている。

「これは葡萄酒ダ」
「ほう?」
「湯呑みを寄越せ」

 茶を飲もうと思っていた湯呑みを渡せば縁はそこに赤い酒をなみなみと注いだ。そして一気に飲み干す。口元から溢れた一筋を袖で拭って湯呑みを緋村に返した。

「貴様の番ダ」

 緋村もまた湯呑みに溢れるまで注ぎ、それを一息にあおる。

「なかなか……強い酒でござるなぁ」

 だが味は思いの外、良い。飲みやすいとでも言おうか。縁はおそらく、飲み慣れない者でも飲める酒を選んできたのだろう。

「そのへらへらした顔を酔い潰してやル」

 言って縁が二杯目を空にし、続いて緋村も同量を空にした。それを数回繰り返したところで縁も緋村もさすがに顔が赤くなった。

「……三杯で潰れると思ったガ」
「この程度……水のようなものでござる」
「まだまだ、こんなもんじゃナイ」
「よいでござる」

 更に数回飲み干したところで暑くなったのか縁は上着の首元を緩め、眼鏡を外した。思えば彼は素顔をあまり見せないなと、緋村はまじまじとその顔を見つめた。視線に気付いたのか縁が不愉快そうに顔を背ける。

「何ダ」
「いやいや……お主……」

 若い。いや、幼いといってもいいかもしれない。
 初めて出会った十数年前はまだ弥彦よりも小さかったのだ。緋村は歳月の流れに怖いくらいの思いを抱いた。

 この青年の幼少期から青年期を、自分は奪ったのだ。平和で穏やかに生きていくはずだった彼の人生を自分は一変させた。抗えない運命の渦の中へ放り込み、そして……手を差し伸べてやる事もできなかった。
 今、緋村が縁に対して思うのは後悔だ。あの時何故と、かつて戦った瀬田宗次郎もそんな言葉を口にした。
 あの時、瀬田と出会っていれば彼を救えたかもしれない。そして自分は、縁と出会っていたのに救えなかた。出会い、互いを知り、その名前さえ覚えていたのに。

「縁……すまぬ……」
「もう降参カ、まだ半量残っていル」
「いや……拙者は……」

 酔いに任せて何を言うつもりなのか緋村自身にも分からなかった。謝罪など何の意味も持たない事も、縁はそんなものを求めていない事も承知だ。こうして東京まで自分を訪ねてこられるくらいに縁の心は「回復」しているのだ……今更その古傷を抉る真似はしたくない。

「飲メ」

 湯呑みが目の前にある。緋村はそれを受け取った。縁の、その言葉とともに飲み込んでやりたいと思った。
(まったく……姉弟そろって酒が強い……)
 かつて巴と二人、向き合って飲んだ夜も互いにそう喋らなかった。
 まさか弟ともこうして酒を飲む日がこようとは。運命とは皮肉なものだ。幸福に生きてほしいと願った相手はもうおらず、心と頬に傷をそれぞれ負った者が二人、残された。

「大陸は……どんな場所でござるか?」

 湯呑みを返す。縁はそれにまた注いだ。ぐいと飲み干す。

「……乾いテ、暑くテ……何も無イ」
「日本に……戻ってくるつもりはないのか?」

 縁は無言で空の湯呑みを床に置いた。いつの間にか外は夕暮れ、格子窓から差し込む明かりは橙色に変わっていた。

「何故、そんな事ヲ聞ク? 俺は日本の警察に追われる身ダ」
「だが、お主の故郷はここでござろう」
「帰りたイなどと思わン……今更」

 本心なのか、酒が言わせた強がりなのか分からない。

「だが……姉さんの墓参は欠かさないつもりダ」
「そうか」

 その言葉は間違いなく本心なのだろう。緋村は答えた。

「ならば、ついでに東京にも顔を見せに寄るでござるよ」
「…………」

 縁は何も言わない。緋村は笑った。

「来年も、待っているでござる」

 縁は無言で湯飲みに酒を注ぎ、それを飲んだ。空の湯飲みを緋村に渡す。それが彼なりの返答なのだと緋村は知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 門も縁側も開いたままで不用心だと薫が驚きながら緋村の姿を探したのはすっかり夜になってからだった。
 出稽古先で弥彦ともども夕餉をご馳走になりつい遅くなってしまった。剣心が心配しているだろうと駆けるように帰ってみれば、戸締りはされておらず緋村の姿は母屋のどこにも見えない。いつかのようにどこかへ行ってしまったのかと薫の顔が青ざめる。だが弥彦の明るい声がその不安を打ち払った。

「薫! 剣心なら道場で寝てるぜー! あいつと一緒に」
「ええ? あいつ?」

 薫が急いで道場に向かう。そこで見たのは意外過ぎる光景だった。星明りが差し込む道場の真ん中であの剣心が酔いつぶれて寝ている。しかもその隣には同様に眠りこける雪代縁の姿があるのだ。

「ちょっと……なんなのよ、この二人……」
「あー、剣心の野郎、風呂沸かしてねーじゃん! くっそー」

 弥彦が悪態をつきながら道場を出て行く。
 薫は稽古の疲れよりもさらに深いため息をついた。怒りよりも笑いが込み上げてきた。
 二人を起こさぬよう静かに母屋に戻り、燭台に火をつけた。弥彦は風呂を沸かしているらしい。母屋の戸を閉めながら通りかかった緋村の部屋には見慣れない荷物が置いてある。おそらく縁のものだろうと薫は口元に笑みを浮かべた。

 剣心は縁を自室に通し、何故か道場で酔い潰れるまで酒を飲んだのだ。酒には強いと思っていた剣心が無防備に寝てしまうなんて滅多にない。一体あの二人はどんな事を話しながら酒を酌み交わしたのだろう。起こしたら悪いと二人分の夜着を手に薫は道場に戻った。
 少し離れた所に燭台を置き、二人の体に夜着をかける。その際、ちらりと縁の顔を見下ろした。眼鏡をかけない寝顔はかつて自分をさらった男の顔とは違うように見える。薫はしばらく二人を見つめ、そして静かに道場から出て行った。

 

 

 

 翌朝、先に起きたのは縁だった。
 思わず飛び起きた背中は道場の床板のせいで痛みを感じる。なんとか眼鏡を探り当て、周りを見渡して愕然とした。
 神谷道場のど真ん中で寝ていたのかと思わず額を抑える。軽い頭痛は飲みすぎた酒のせいだろうかと隣を見れば緋村はぐっすり眠りこんでいた。
 すでに朝日は高く縁が起きた気配で目覚めそうなものを、この男はどこまでも暢気だなと息を吐いた。体にかけられていた夜着と消えた蝋燭を見つけ、道場主が帰宅した事にさえ気付かず寝ていたのかと後悔ばかり浮かんでくる。
 誰か起きてくる前に去ろうと思ったが荷物は母屋だと思い出した。さてどうするかと胡坐のままぼんやりしていると外から道場の戸が開いた。ガラガラと遠慮なく開くその音に緋村も起きた。

「おろ……朝……?」
「そうダ」
「しまった、拙者母屋の戸締りもせず……」

 緋村の目の前に、戸を開けた薫が現れた。

「おはよう、二人とも!」
「薫殿、すまんでござる、拙者……」
「話は後! とりあえず剣心は朝ごはんの支度を手伝って! あなたは……」

 薫が縁を見る。縁は顔を上げた。

「俺はもう行ク」
「だーめ! あなたはお風呂よ! 剣心はその後でもいい? 二人ともすごくお酒くさいわよ」
「待テ、俺は……」
「この家の主は私! 泊まったからには言うこと聞いてもらうわよ?」

 薫はさっさと歩いていく。立ったまま動かない縁を振り返り、

「早く!」
「行った方がよいでござるよ、縁。薫殿は怒らせると怖いでござる」

 緋村が苦笑する。縁はやれやれと肩をすくめた。すっかり緋村の……この家の者たちに乗せられている。

「……口うるさいのは相変わらずカ」

 前を行く薫の背に呟く。薫は片目を閉じて笑って見せた。

「言い出したら聞かない女だって、知ってるでしょ」

 廊下を歩きながら縁は庭から空を見上げた。
 よく知る大陸の空とは違う、どこか透き通った青。
 湿気が多いのは気に食わないが、それでもどこか懐かしい。
 そう感じる己の心を、何故か今は素直に受け止められそうな気がした。

「船旅は長く、疲れるでござろう?」

 後ろからついてきた緋村は縁に言う。縁と同じように空を見上げていた。

「少し、休んでいくといいでござる」

 貴様のようにか?と縁は口に出そうとして、止めた。
 隣に立つ男が十年の歳月を流浪人として過ごし、そしてここをを生きる場所と定めた所以を知らない縁では無い。
 ここはもう、緋村にとって「帰る家」なのだ。
 そしてその家に、因縁のある縁を招いた。

「……やはり、変わった男ダ、貴様は」

 緋村は笑う。困ったような、照れたような……けれども、目の前の相手を信じる目をして。だからなのか、つい気を許してしまう。縁は視線を緋村から空に戻した。

「……もう夏も、終わりだナ」

 二人の間に吹いた風が部屋の障子を揺らした。今夜からはこの風通しのいい部屋に縁を泊めようと緋村は一人、頷いた。