【 雨の香り 】

雨が似合う女だと、まだ江戸にいた頃に言われたことがある。
その言葉を、京都でも言われた。

この都に降る雨は、血の匂いがする。

緋村が帰らない。

部屋の外から声が聞こえ、巴は縫い物をしていた手を止めた。
時刻は深更、彼は今宵も仕事に出ているのだがいつもの時間になっても戻っていなかった。
この小萩屋に戻る前にどこかの店に立ち寄っているかと思ったが、こんな時分では呑み屋も疾うに閉まっている。

「検分役はもう帰ってきているんだろう?」
「ああ。現場で確かに緋村と話したとさ。傷どころか返り血一つ浴びていねぇ奴とな」
「どこ行っちまったんだか、あのガキは」

男たちの声に巴はそっと窓を見やった。格子の向こうは雨。
夏を迎える直前の京都は蒸し暑く滴る雨が湿気を運び不快な事この上ない。
こんな雨の中、あの子供はどこに行ってしまったのか。
巴は視線を手元に戻し、しばらくそのままの姿で座る。

「桂さんの耳に入って心配をかけたくない。辺りを見てくる」

誰かが小萩屋を出て行く気配がする。
彼らがあの少年の身を案じている様子が分かった。
だが、それは純粋な思いではないのだ。
あの少年だからこそ、失うわけにはいかない。

新時代のための幼い鬼。人斬り抜刀斎。

長州にとっての切り札であるあの少年を、彼らは決して手放さない。

巴はふいに立ち上がると机の引き出しから雑記帳を取り出す。
その頁を開いて今夜の日付と簡単な文章を記した。そして墨が乾くのを待って閉じると、また引き出しの奥にしまう。そして奥の押入れから傘を取り出すと部屋を出た。
その傘は、濃い群青色をしている。
だが、所々に黒い染みがついていた。

あの、血の雨の夜に。
人斬りと初めて出会った夜に。

「巴ちゃん、こんな夜中にどこ行くん?」
顔見知りの女中に声をかけられ振り向いた巴は僅かに会釈した。女中はそうか、と頷く。
「緋村さん探しに行くんやね、気をつけて」
黙って頷き返し、巴は雨の夜の下へ出掛けていく。
行く宛など、無い。

そう遠くない場所を見て回ったが、彼の姿は無い。
雨に濡れて体も少し冷えてきた。そろそろ戻ろうかと踵を返す。
夜の町はひっそりとしている。
まるで雨音に紛れて何かを隠しているように。
あの、幼い人斬りを。

「………………」

緋村の顔を思い出すと胸が痛んだ。
思い出したくない事と、忘れてはいけない事が同時に胸に迫ってくる。
そのまま足を進めれば、そこはいつかの小路だった。

血の臭い。
雨の音。
凍りつく瞳。

邂逅はこんな雨の夜だった。
自分でも信じられないほど淡々とした言葉が出たのだ。
あんなにも探し求めていた男に出会ったあの瞬間。
自分の心まで凍りついたのだと知った。

殺したくて仕方なかった。
そのためならどんな事も厭わないと誓ってたどり着いたこの京都。
人斬り抜刀斎と呼ばれる男を探し、その命を奪う。
そのために自分は生きる。そのため以外に生きる意味を持てなくなっていた。

あの人がいないのなら、生きていても仕方ない。
けれど、あの人を奪った者を許すことはできない。

無気力な私の中に灯った火は、この雨に濡れても消える事無く燻り続けている。
ただ一つ、殺意という真実を照らすこの火はあの人を見つけ出す。
どこにいても。

「……緋村さん」

あなたを。

「……とも、え……?」

探し出せる。

「傘も持たずに、こんな所で何をなさっていたのですか」

目の前で人斬り抜刀斎はぼんやりと闇を見つめて立ち尽くしていた。
その体は雨に濡れている。赤みがかった髪はほどけ、その背に流れていた。
頬の傷が、その髪に隠れている。
滴る雫の下で、痛みを叫びながら。

「君こそ、こんな時間に何をしているんだ」
「お探ししておりました」

素直に答えれば少年は驚いて目を見張る。それはまるであの夜のよう。
驚きの表情だけは幼い彼をそのまま映す。
無垢で汚れの無い、魂をそのままに。

「……俺を?」
「……また、ここでお会いするとは思いませんでした」
「うん……」

彼はそうして辺りを見回した。

「いつの間にかここに来ていた。この外れの小路……いつも、雨が降っている」

彼は饒舌だった。

「君と初めて会った夜もこんなふうに雨だった。そうだ……君は、俺に言ったんだ。あなたは血の雨を降らせるのだと……」

いつもと違う彼の様子に巴はそっと目を凝らす。緋村の頬が雨に中でも分かるほど赤い。
ふと風に乗って流れる酒の残り香。酔っているのか。
「仕事」の後でこんなふうに酒に溺れる少年を見るのは初めてだった。
巴は足を忍ばせるように近付く。

「お酒を、召されているのですか」
「大した量じゃない。別に……酔いたかったわけでもない」

緋村は乾いた目をしながら笑った。
ひどく大人びたその笑い方に巴は違和感を感じる。
時折笑みを見せる彼の笑い方はこんなに不自然ではなかったはず。
今日の「仕事」は特別だったのだろうか。

「何故、小萩屋に帰らないのですか」
「君がこんなにいくつも問いかけるなんて、珍しい事もあるんだな」

問いには答えず笑う少年の肩に容赦なく叩きつける雨。
それは心のざわめきの音のようだった。
いつかの出会いの再現なのか、彼は刀を提げ、巴は傘を差している。

思い出すのは、雨の中、むせるような血の匂い。

思えばあの夜から、二人はいつも共に過ごしている。
この動乱の時代に、寄り添うかのように。

「……帰りましょう」

そう言いながら、緋村の肩にそっと傘を傾ける。

「……………………」

緋村はそれを視線で受け止め、口元を歪ませる。

「人斬りの俺に、帰る場所なんて」

その頬を伝うのは、雨か。

「無い」

涙であってほしくないと、巴は思った。

「でしたら、」

差し出したのは、傘ではなく腕。
そのまま触れた掌は、熱を伝え合う。

「私のところへ、お帰り下さい」

どうしてそんな言葉が出てきたのか分からないまま巴の唇は紡いでいた。

「……帰りましょう」
「……巴」

触れ合った掌が離れる。
傘が、雨に濡れた地面に散った。
群青の波を返して、白い小袖が広がる。
少年は目を閉じた。

「……雨が降ると、思い出すんだ」

巴もまた目を閉じた。その頬を雨が濡らしていく。
けれど、抱きしめた少年の腕が阻むかのように熱い。

「あの夜も……こうして雨の中で……」

ざわめく心の音が雨に混じる。
何かが始まる予感の中で、確かに届く鼓動と。
そして。

「君の香りを……抱いた気がして……」

雨に香る、白梅香。
抱きしめる程に、強く。
そこにあると感じられる、唯一つの。

「ずっと……探してた……」

背中を撫でる。
もう何にも迷わないように。
そして、失わないように。

「……帰りましょう」

この雨の中で、何度でも。
巡り会えるように、祈りを。

「あなた」

雨の香りを抱いて。
あなたと。

もう一度。