こんなに香る花があるのか。
山里を家に向かって帰る途中。
夕暮れに消えそうな同じ色をした花が濃い緑の葉の中に隠れるように咲いている。
芳香を放ちながら、存在を示す豊かな匂いを纏って。
「検心さん、今帰りかい? もう山は冷えるだろう」
「ええ、そろそろ夏の薬草も終わりですね」
「隣の婆さんが腰が痛いと言っていたから、明日にでも頼むよ」
「分かりました」
すれ違う村人と会話を交わしながら誘われるように花へと歩む。
家に近付くほどその香りは強くなるような気がした。
何という名の、花なんだろう。
師匠の元へいた頃にも嗅いだ記憶がある。長州にいた頃も、京でも。
だが、花の名など気にした事は無かったし、何より香りに気付くことも無かった。
あの頃は……匂いといえば。
己に付きまとう、鮮やかな。
あの、赤い。
赤い。
「おかえりなさいませ」
はっと顔を上げれば家はもう目の前。そして妻が外で待っていた。
「ああ、うん。……ただいま」
「薬草は採れましたか?」
「少しだけ。もう夏のものは無いよ」
「すっかり秋なのですね。昼間はまだ暑いくらいなのに」
そう言いながら妻が家の脇に生えた木を見上げた。
「もう、こんな花の時期なのですね」
「甘い香りがするな」
「金木犀です……懐かしい」
「懐かしい?」
ええ、と妻は小さく応えた。
昔、家の庭にも咲いていた、と。
「この花の香りが届くと、秋が来たのだと知ります」
「秋の、花なんだな」
「はい」
妻が細い腕をその花の枝に伸ばす。
濃い緑の葉に触れた指先が、震えている。
「香りとは、その記憶まで包んで留めて置いてくれるものでしょうか……」
「え……?」
呟いた声に何も言い返せない。
その意味を探るうちに妻はこちらを振り向くようにして家へ向かう。
「夕餉にしましょう」
「……ああ」
そしてまた、あの花の香り 。
あの時、君が何を言いたかったのか。
君のいない秋が巡るたびに想う。
花の香りが届くたびに、想う。
あの時、君は。
「……憶えてるよ……」
この花の香りとともに。
君を。
君の、秋を。
了