【 芙蓉の花 】

空が高い。
夏の終わりは駆け足で野山を去っていく。
琵琶湖に程近い大津の山々は既に深い色に包まれていた。
都の喧騒も遠く、上がる炎さえ見えない。
ここで暮らし始めて、もう二ヶ月が過ぎようとしている。

彼は古びた家から外に出た。
夕景が彼の髪をより紅く染める。
山の稜線の向こう、京。
今ではそこで生きた時間が虚しく感じられる。
まるで、夢を見ていたかのように。

着流しで過ごす日々が続く。
いつの間にか腰に刀を帯びなくなった。

刀を握る手は今、毎日の生活の糧を獲る為に動き。
その目は移ろい変わる空と山の色と。
そして、

「冷えて、きましたね」

背後からそっと声が届く。

「もう、秋なんだな」
「早いものです」
「空が、高い」

そして、己の妻。

「夕餉の支度ができました」
「薪を取ってくるよ」

夫婦となって、二ヶ月。
名ばかりの夫婦。
仮初の夫婦。
それでも二人は夫であり、妻であった。

今、だけは。

彼は家の裏にある粗末な小屋に向かった。今夜のための薪を手に取る。
(まるで、本物の農夫みたいだな)
最近はそう思う。
夏が来る前までは鉈ではなく刀を、木ではなく人に振り下ろしていたというのに。
(どうして、こんなにも)
ただ、朝を向かえ夜を過ごす事が。
静かな時が流れていくのを、目を閉じて過ごす事が。
(こんなにも)

ふと目をやれば小屋の脇に桃色の花弁が揺れていた。
「は、な」
その花の名を彼は知らなかった。
奇麗だな、と素直に思う。
花なんて京にも、そして幼少を過ごした山にも咲いていたのに目を留める事はなかった。
だから気付かなかったのか。
この動乱の時代にも、ひっそりと咲く花が、人の喜びが在るのだという事。

「こちらですか」
花に手を伸ばそうとした時、家の方から呼び声がする。そして細い影が横に並んだ。
「……芙蓉」
彼女は花の名を告げた。
「ふよう?」
聞き返す彼に、彼女は頷く。
「夏の終わりから秋にかけて咲く花です」
「芙蓉……か」
彼はその花を手折ることをやめた。そして薪を手に家へと戻る。
彼女がその後に続き、そして家の戸を閉めた。
暖かい火の気配に、彼はふと呟く。

「奇麗だと思ったんだ」
彼女は黙って聞いていた。
「飾れば。……でも」

今、手折ってしまえば。
明日は、きっと枯れてしまうから。

「そう、ですね」

彼女は静かに答えた。
彼は薪を土間の隅に置いて振り返る。

「明日も、咲いているといい」
「……はい」

明日も、明後日も、ずっと。
繊細で小さな花が、ずっと。

側で、咲いていてくれたら。
こんなにも穏やかでいられるから。

この胸の中で、強く。
一筋の、道標のように。

「生きて、いけると思うんだ」