雨の音が不意に途絶えた。
読み終えた本を静かに閉じた巴は背後で相も変わらず刀を抱いて目を瞑っている少年を振り返った。眠っていない事が知れていたので声をかける。
「ご存知でしょうか」
少年は巴の予想通り片目を開けた。そして「何を」と声を漏らす。少し眠そうに聞こえた。どうやら彼は半分眠っていたらしい。巴は手の中の貸本を少年に見えるよう持ち上げた。少年が河原町で借りてきたものである。だが彼はその本を読むためではなく表情を隠すために使っていた。
巴は今日、掃除などを終えると部屋に戻ってきた。
そして積まれた本の中から適当に見繕って読み始めていた。
「この、物語を」
「何だ」
少年はその表紙に記された題名を読み上げた。
「曾我、兄弟」
「ええ」
「父親の仇討ちをした兄弟だろ」
「ご存知ですか」
「聞いた事があるだけだ。詳しくは」
「お読みになりますか」
「いや……いい」
「そうですか」
「どういう話なんだ」
眠りに飽きたのか彼は刀を床に置き伸びをした。
「父親の仇討ちをした兄弟のお話です」
「……本当に読んだのか?」
「ええ」
「……面白かったか」
「ええ」
「そうか」
素っ気無い会話はいつもの事。
巴はその本を元の場所、つまりは少年が座っている近くに戻した。
「雨か」
「先ほどから降り始めたようですね」
「五月の雨は嫌になるな」
「……そう」
「巴?」
巴は戻した本を再び手に取り、そしてぱらぱらと頁をめくる。
そしてふと壁の暦を見上げた。日付を読み上げる。五月二十八日。
「やはり、雨なのですね」
「何だよ、雨がどうかしたか」
「今日の雨は、曾我の雨と云うのです」
「曾我の、雨?」
ええ、と頷いた巴は本を置き、少年に聞かせるように呟いた。
「今日は、曾我兄弟が仇討ちを為した日。その日は必ず雨が降るのです」
「まさか……」
「でも、今日は雨」
「偶然だろう」
「雨、です」
そうだな、と少年は格子窓の外を見る。
雨の音は聞こえないが湿った空気が雫の気配を伝えてきた。
彼はふと、指先に触れた刀を見つめた。
「仇討ちの日は、雨か」
「……どうかしましたか」
「どうして、雨なんだ?」
それは……と巴は一瞬だけ瞳を曇らせたがすぐに表情を戻した。
「兄の方が仇討ちの計画を隠すために遊女の元へ通っていたのです。そして仇討ちの時、兄は討ち死にしました。それを知った遊女は悲しみ、涙がやがて雨になったのです。だから、この日に降る雨を曾我の雨、と」
「涙……なのか」
この雨も?
そう問いかける少年の横顔に、一筋の傷がある。
巴はその傷に向かって、告げた。
「仇を、討つ」
「……巴?」
「その遊女は何故悲しんだのでしょうね。兄弟の悲願は達成されたのに……何故彼女は悲しんだのでしょうか」
「それは、兄の方を好いていたからだろう」
……その人の悲願だった仇討ちは成就したのに」
「好いた男が死んで、悲しんだのだろう」
「では……好いた人を失った彼女の想いは誰が晴らしてくれるのですか……」
そこまで言って、巴は声を止めた。
少年が怪訝な顔で自分を見ている事に気付いた。
余計な事まで喋ってしまった、と巴は取り繕うように首を振り立ち上がる。
そろそろ夕餉の支度をと厨房に向かうフリをした。
「なぁ、」
呼びかけの声に、巴は立ち止まる。
「……君だったら、どうするんだ」
「何を、ですか」
「仇討ちを企む男を愛したとしたら、君は」
「……泣いたり、しません」
不思議と言い切っていた自分に驚きながら、巴は胸に手を当てた。
(だって……私は遊女じゃないもの)
「その男を失っても……?」
「悲願を達成されたのなら、喜びます」
それが武家の女だ。どこかで強い声がする。
(私は、仇討ちを企む兄のほうだもの……)
「……強気な女だな」
「ええ……自分でも、思います」
(でなければ、一人で京都になんか)
「呼び止めて、すまない」
「いえ」
(だから……)
そして足を踏み出す。部屋を出て襖を閉める。
パタリと、鳴る。
それはまるで男の首が落ちる音に聞こえ、巴は思わず声を出していた。
「雨なんて、降らない」
了