『 私、嫁ぎ先が決まっていたんです 』
そう語った巴の声が、目が、頭から離れなかった。
手を伸ばせば触れる事ができる距離に立つ「妻」は、今日も俺に背を向けている。
黒髪を背中で緩く束ねて、いつもの小袖をまとって。
夕餉の支度をする後姿は「薬屋の妻」だった。
昨日、巴の弟という少年が現れた。
彼は何故夕餉も食べずに出て行ってしまったのだろうか。
年の瀬になると余計な事まで考えてしまう。
いや、季節のせいじゃない。
夏の終わりから俺は「考える」事が多くなった。
人を斬らずに暮らす、この里山での生活の中で。
剣を振るっていた頃は何も考えずに済んだ。
巴と出会うまでは、ただひたすらに血の雨を降らすだけでよかった。
人斬りなのだ。考えるより先に手が、足が動く。
あの頃はそれでよかった。
けれど、今は。
今は、君の夫となるはずの男はどういう男だったのか考えている。
幼馴染みだったという。
巴のため、祝言を延ばして上洛した男。
君が愛した、男。
(無駄な事だ……もう)
それはよく分かっていた。
俺たちは、形だけの夫婦なのだ。
できれば、一緒に。その言葉で始まった夫婦生活。だが実態は何も無い。
何も。
……だけど。
君が、俺ではない誰かにその微笑みを向けたのかと思うと。
君が、俺ではない誰かを愛していたのかと思うと。
「巴……」
「はい」
すぐに振り向く君はその目に感情という色を見せない。
ただ漆黒の闇を向けてくる。
吸い込まれそうなほど、まっすぐ。
いつから君の目を恐れるようになっただろうか。
こんなふうに見つめ合えば、俺は。
「あなた……?」
俺の名を決して呼ばない君は、ただの「妻」なのだ。
輪郭だけを俺の隣に残して、その中の想いだけを守る君は。
俺の想いに気付かないで、ただ静かに在ろうとする。
人斬りの、側に。
「側に……」
「え……?」
『 私、嫁ぎ先が決まっていたんです 』
それは、心の行方は決まっていたということ。
それは、己の想いは誰にも渡さないということ。
「側にいさせてくれ……」
手を伸ばせば触れる事ができた。
巴の体は細い。
抱きしめたいと思ったのは、これが初めてではない。
「………………」
心は許してくれなくてもいい。
でも、この温もりだけは。
胸に抱く、あたたかな鼓動だけは。
こうして抱きしめている、今だけは。
俺だけを見て、俺の声だけを聞いて。
俺の体温だけを感じて。
俺の妻で、いてくれないか。
「巴……」
巴は何も言わなかった。
ただ、背中に細い腕を感じる。
今、だけは。
「俺は、君を」
この手で守る。
その、魂さえも。
了