その料亭は京都でも倒幕派が好んで利用する、鴨川沿いにある少し古びた店だ。
二階の窓辺の部屋に桂小五郎は一人で座っている。
少し開けた格子窓から冬の風が入り込む夕闇が近い時刻。
脇に置いた火鉢から炭が爆ぜる音がした。
慶応三年の暮れ、つい先日に王政復古が叫ばれたばかり。
京の町は今、大きく揺れ動いている。
桂は一人、共も連れずにこの料亭を訪れた。
それから四半刻、彼はここで人を待っている。
「お客はん、お連れ様がお着きになりましたえ」
階下から聞こえた店の者の声の後、足音も立てずに誰かが部屋に近付いてくる。
そしてすぐに部屋の襖が開いた。
現れたのは若い男。桂はその顔を見て目を細めた。
「元気そう、だな」
「……ええ」
桂は男を部屋に招き入れた。火鉢を近くに置く。
男は腰に帯びた刀を手に取り、座してそれを床に置いた。
「突然呼び出してすまない。……これからの我が藩の方針を直接話しておこうと思ってな」
そう言い置いて、桂は男の顔を見た。
男と呼ぶにはまだ早い、少年と青年の狭間の顔。
そしてその左頬には十字に刀傷が走っている。
「緋村、」
「はい」
すまない。そう言い掛けて桂は口をつぐんだ。
何に対しての謝罪なのか、それはあまりにも多すぎた。
そしてそれを自分が口にする事を、目の前の男が好まない事も知っていた。
「いや。……」
そして桂は藩の内情を語って聞かせる。
男は黙って、目を伏せて聞いていた。
外が完全に闇に覆われた頃。
桂は大きく息を吐いた。
「……恐らく、年が明ければすぐに動き出す。開戦は伏見になるだろう」
「伏見、ですか」
「行ってくれるか、緋村」
「無論です」
「そうか……」
そこで話は切れた。
桂はふと、初めてこの男と出会った日を思い出した。
幼くも真っ直ぐな体と、澄んだ目をした少年だった。その手に在る刀は子供にはあまりに不釣合いで、どこか悲しみさえ誘う姿だった。
その少年を、自分は人斬りとして育ててしまった。
類稀なる剣の腕に目がくらみ、その剣を振るう者が子供だという事を見ないふりをした。
己の正義のために一人の少年を殺した。その罪は今も消えない。
「苦しくは、ないか」
「……いえ」
問えば男は静かに首を振る。
どこか老成したその仕草はこの男を無情の人斬りとして飾り立てた。
三年前の冬の日から、彼は変わった。
「その目だけは……今でも変わらないな」
男は眼差しで答える。
宿す光はあの幼い子供のまま。
ただ、真っ直ぐに己の生きる道を探している。
「今でも、お前は忘れていないのだな。……あの時語ってくれた、生き方を」
「……俺は、そのために此処で生きているんです」
男はそう言った。声に僅かな熱がこもっている。
「そのために……俺は……」
男は置いた刀に指を伸ばした。
どれだけの血を吸ってきただろうその刀の柄には薄紫色の布が巻いてあった。
「……緋村。俺たちは、長州を背負ってもう引き返せないところへ来た。新時代はもう絵空事ではない、すぐ手の届くところまで来ている。お前が散らした命は、必ず新時代の礎となってくれる。俺はそう信じている」
「桂さん……」
「俺たちが造る新時代は、緋村。お前が生きる時代だ。お前に初めて出会った時告げた言葉を、俺は今でもこの胸に刻んでいる」
「…………」
「その命、無駄にするなよ」
そんな言葉しか見つからない。そう呟き、桂は立ち上がった。
「そろそろ戻らねば。今夜は藩邸に寄って行くか?」
「遠慮しておきます」
藩内では緋村の存在を恐れる者も多い。そのせいか彼は自然と藩から距離を置くようになっていた。人斬り抜刀斎の名は今や京で知らぬ者はいない。だが、その正体がまだ十八足らずの少年である事実を知っている者は少なかった。
「また連絡する」
「……お気をつけて」
男は立ち上がり桂を見送った。そして自分もまた料亭を出る。
風のない夜だった。
寒さに肩が震える。刀の柄から布を取り、それを首に巻いた。仄かに梅の香りがする。
(今でも……)
先程の桂の言葉が耳に残っていた。
今でも、己の信念は変わらないか。そう問われたような気がした。
(俺は……)
変わるはずが無い。
もはやこの手には、何も残されていないのだ。
……何も。
この薄紫の肩掛けと、
消えることの無い、悲しみだけ。
(今でも、俺は……)
あの日、貴女に誓った想いを。
―――――――――― それだけを。
(……巴。そこにいるか……)
人通りの少ない道を行けば濃紺の袴はすぐに夜に溶けた。
遠くに町の喧騒が聞こえる。
幕府の滅亡はもう目の前。この都は今、その胎動を感じているはずだ。
夜明けは、未だ遠く。
その果てに、新時代という光を手にするまで。
目を閉じてその光を想う。
いつもそこにいる、ただ一人の姿と重ねて。
了